わたしが医者になって十年以上が過ぎました。その間、医者として数多くの死に接してきました。また、個人的にも両親の死をみとってきました。日常的に病気や死と接していると、人の死というものに思いをはせないではいられません。
しかし、病院を一歩出ると、そこには「隠された死」と呼ばれる現状があります。
医学の進歩がわれわれに恩恵をもたらす一方で、ハイテク化した医療は、死に対する準備や自然な死を取り上げてしまい、死が隠され、そのためにいっそう死に対する不安や恐怖が増大する結果になっているとの指摘もあります。現代においては、死を語ることはほとんどタブーとなっているのです。
「バカの壁」でおなじみの養老孟司先生は、こう述べています。
現代のように都市化した社会では、すべてが「ああすれば、こうなる」という予測と統御の原則で動く。そして人間の意思では思うようにならない自然は極力排除されることになる。したがって「身体という内なる自然」である生老病死も、日常生活から排除されることになる。よって、子どもは病院で生まれ、老人と病人は病院や施設に入り、死は病院で起こるようになっている…。
これはわたし自身、大変納得させられる説明です。逆に、病院では誰でも死と向き合わざるをえない状況が日々起こっているのです。
例えばわたしも、患者さんの臨終が近くなると、家族に延命治療を希望するかどうか尋ねることがよくあります。その決断は急を要することも多く、家族にとってその決断は苦渋の決断であり、大きな負担になっています。そんな時、過去に患者さんからどうしてほしいかの意思が示されている場合は、自分自身も家族もみんなが納得できる形になるのです。
聖路加病院理事長の日野原重明先生などはもっと進めて、死について学ぶことは、そのまま死までの生き方を考えることになるとの考え(「よく生きることは、よく死ぬこと」とも述べています)から、死について考える「死生学」を提唱されています。
例えば、日野原先生は、子どもに鳥や犬などのペットを飼うことを勧めています。子どもがペットの死に出合った時、その悲しみの中に子供の感性が育てられるからです。また、若い時から病む老人に会い、墓参りに子どもも連れて行って、祖先の弔われている姿を見せることが、大人になって死を経験する時の心に通じると述べています。
沖縄の一部の地域では、臨終が近付くと、その家族が肉親を自宅に連れて帰るという風習が残っています。これには肉親を畳の上で死なせたいというだけでなく、残された家族にとっても、その死を病院から自分たちの元へ取り戻すという思いがあるのでしょう。
その一方で、テレビやゲームといった仮想世界では、どんどん人が死んでいきながら、現実の生活では、アパートやマンションでペットも飼えないとか、核家族の中で、肉親が死んだのを見たことがないという子どもも多いのではないでしょうか?
子どもによる事件・事故などが起こると「命の大切さを教えるべきだ」と声高に叫ばれますが、死を知らずしてそれができるのだろうかといつも思います。死を学ぶことは、大人にとっても子どもにとっても大変難しいことですが、大事なことだと思うのです。