沖縄に移住する前は福岡の大学病院に勤務し、外科や救急医療に携わりながら、「病気を治すこと」が前提の「命」と向き合う毎日を送っていた。しかし沖縄に移住し、開業し、医療を続けてゆくうちに、向き合う「命」にさまざまな形があることを感じる。
昨今「命」の在り方がとても軽んじられるように感じるのは私だけではないだろう。自殺、戦争、命が途絶える理由はいろいろあるが、とにかく軽々しく命が途絶えてしまうことが多くなった。
アラスカに移り住んだ写真家の星野道夫という人の写真と文章に引き込まれて、すべての本、写真集を買い込んで読んでいくうちに、その理由が少しずつ理解できるような気がしてきた。
アラスカとは生と死が隣り合わせに存在する場所だという。家の外で作業をしていることが死につながる。一寸寒くなった、手足がかじかんできた、その直後に動けなくなって、そのまま死を待つ、そんな場所だと言う。だから死をいつも感じて、今の生に感謝する。
獲物を求めて狩りに出た者の帰りを、家で待つ者がいる。もし獲物を持って帰れなければ、皆に待っているのは死。だから生きることに必死になる。いつも死が傍らにあるから。
しかし、もし死が避けられないものなら、それも受け入れる。死が次の命につながることを知っているから。家の外で死を迎えたとしても、その死は他の動物や植物の糧となる。そして他の動物や植物の命はやがて人の命につながる。
今この国も含めて、死は人ごとでしかなくなってきている。評論家になることはあっても、死を自分のものとして受け入れる準備はできていない。しょせん他人の命、他の生き物の命、自分と関係ない世界の出来事、だから死を前提に今生きている「命」の大切さを、自分のこととして考えることが少なくなっているように思える。
内地から沖縄に移住し、地域医療を始めて十年がたつ。昔はそれなりの専門性を持っていた。しかし読谷村で開業し、地域医療に携わってゆくうちに、これまで培ってきた専門性だけでは足りないような気がしてきた。
一開業医として、いろいろな形の命と向き合う必要がある。地域医療とは、単に病気の診療にとどまるのではなく、その土地で生きる人々と関わり、「命」と向き合う専門性が必要とされている、そんなふうに感じるようになってきた。