常任理事 宮里 善次
平成24 年11 月27 日(火)ナハテラスに於 いて、沖縄県医師会主催で桑江朝彦先生の日本 医師会最高優功賞受賞及び當山護先生旭日双光 章受章の合同祝賀会の開催をご案内したとこ ろ、両先生のこれまでのご業績とご活躍に対し て、全県下から多くの会員の方々が集い、盛大 な祝賀を行いました。
初めに主催者を代表して宮城信雄沖縄県医師 会長のご挨拶、中田安彦中部地区医師会長によ る桑江先生のご業績紹介、真栄田篤彦那覇市医 師会長による當山先生のご業績紹介が行われ、 続いて与世田兼稔副知事の来賓祝辞が披露され ました。その後両先生からの謝辞に続き新垣善 一代議員会議長による乾杯のご発声で、祝賀会 が厳かに開始されました。
謝辞では、両先生とも奥様に対する感謝の言葉から始まったのは印象的でした。
桑江先生は中部地区医師会の副会長時代に会 長急逝に伴い会長職に就いた事、その後中部地区医師会の土地取得と医師会館の建設に関わっ た様々なご苦労を述べられました。
後輩の我々にとっては初めて耳にするような 貴重な歴史的経過と、日本医師会最高優功賞に 値する様々なお話を伺うことができました。
また、當山先生はエネルギッシュなパワー溢 れる語り口で、ご業績については軽く述べるに 留まりましたが、今後もノーベル賞に値するよ うな仕事をしたいと未来へむけた言葉を述べら れ、聞いていた我々の方が頑張らねばと意気込 んでしまうほど新たな気持ちにさせられました。
厳かに始まった会でしたが、与世田副知事 のウィットに富んだご挨拶の後は和やかな雰 囲気となり、盛況の内になごりおしい閉会と なりました。
桑江先生、當山先生おめでとうございます。 今後ますますお元気でご活躍され、医師会活動 に対してご指導の程よろしくお願い致します。
挨 拶
本日ここに、桑江朝彦 先生日本医師会最高優功 賞受賞、當山護先生旭日 双光章受章祝賀会を開催 いたしましたところ、多 数の皆様にご出席頂き、 厚くお礼申し上げます。
桑江先生、當山先生のご業績は後程詳しくご 披露されますが、お二方ともに地区医師会・沖 縄県医師会役員として長年に亘り会の発展並び に県民の医療・保健・福祉の向上に尽力された ご功績によりこの度の栄誉ある賞を受賞されて おります。
先生方の輝かしいご功績は、私ども会員はも とより県民だれもが等しく認めるところであ り、本県の医療・保健・福祉の歴史を振り返っ て見たとき、先生がこれまで果たしてきた役割 はいかに大きなものであったかを改めて認識す るものであり、ここに先生方の永年のご労苦に 対し沖縄県医師会を代表して深甚なる敬意と謝 意を表する次第であります。
さて、皆様ご高承のとおり、去る16 日(金) に衆議院が解散し、現在、次期の政権を取るた めの戦いが始まっております。
野田首相は衆院選の争点として、社会保障 を筆頭にあげておりますが、その一方で現在 TPP 交渉参加に意欲を示し、協議を加速させ ようとしております。
TPP 参加交渉を進める上で、政府は、我が 国の公的医療保険制度はTPP の議論の俎上に 上がらないと言っていますが、米国が株式会社 の参入や中医協での薬価決定プロセスに干渉し てくることは十分考えられることであり、それ が蟻の一穴となって世界に冠たる国民皆保険制 度が形骸化される恐れがあります。少なくとも TPP の参加が、我が国の社会保障の充実をも たらすとは到底思えません。
また、去る8 月、消費税増税法案が可決され ておりますが、各医療機関における医薬品等の 仕入れ代金、医療機器等の購入代金にかかる消費税は、控除対象外消費税として控除が出来ず に医療機関が負担しております。
現行制度のまま消費税率のみが上げられれ ば、医療機関の負担は増大し経営が成り立たな くなり、地域医療は完全に崩壊してしまいます。
国家の繁栄は、先ず国民の健康が保たれてこそ 実現するものであり、来月誕生する新政権には是 非ともこれらの問題を十分に理解して頂き、国民 皆保険制度の堅持と、現行の控除対象外消費税問 題を改善するよう切に要望するものであります。
現在、医療を取り巻く環境は非常に厳しい状 況にあり、様々な問題が山積しておりますが、 桑江先生、當山先生におかれましては、なにと ぞ今後ともその卓越したご見識によるご指導、 ご助言を賜り、県民が希求する安心・安全な医 療の構築にお力添え下さいますようお願い申し 上げる次第であります。
終わりに臨み、永年に亘って先生方を支えて こられたご家族の皆様に深甚なる敬意を表する と共に、皆さまの今後益々のご健勝とご多幸を 祈念して私の挨拶とさせて頂きます。
業績紹介
この度の桑江朝彦先 生の日本医師会最高優 功賞受賞に際し、輝か しい数々のご業績の中 から主なものを簡単に ご紹介させて戴きます。
桑江先生は昭和42 年 に医療従事者の絶対数が不足していた沖縄の医 療事情を憂い、コザ市に桑江皮膚科医院を現在 地に開設して以来、今日まで約45 年間に亘り 医療を通して地域住民の医療・保健・福祉の向 上に尽力されました。
沖縄の祖国復帰前後の激動と混乱の時代にお いて、桑江先生は日夜地域医療に挺身する毎日 でありましたが、地域医療の発展のため、昭和 47 年7 月より昭和49 年3 月までの間、沖縄県 医師会理事に就任され、復帰直後の各種制度が 本土法へ移行する困難の中、医療保険担当理事として社会保険及び国民健康保険事業の健全な 運営に尽力されました。
更に、昭和57 年4 月、中部地区医師会副会 長に就任するも同医師会会長の突然のご逝去に より同年10 月、会長に就任されました。以来、 平成6 年3 月迄の約12 年間に亘り、ご自身の 多忙な日常診療にも関わらず、医師会活動発展 に多大な功績を残されました。
中でも、中部地区医師会では、昭和53 年11 月より平成12 年3 月までの21 年間にわたり 沖縄市救急診療所への医師派遣を行いました が、桑江先生は昭和57 年10 月から平成6 年3 月までの約12 年間にわたり同診療所管理者と してその手腕を発揮されました。
更に、昭和63 年に開設された中部地区医師 会会館の建設に際して、先生は医師会会長とし て、会館建設準備委員会、会館建設委員会を組 織し、建設、運営の全ての統率をなされ、その 力量を如何なく発揮されました。
これら桑江先生の功績により、会員の長年の 夢であった医師会活動の拠点である中部地区医 師会会館が建設され、併せて中部地区医師会立 成人病検診センターが開設されました。
また、昭和62 年に開催された国民体育大会 の海邦国体においては、沖縄県における戦後最 大のイベントとして位置づけられ、県民各層が 一丸となって取り組み、成功裡に終える事が出 来ましたが、その中にあって桑江先生は大会主 会場を抱える地域医師会会長として、リハーサ ルから夏季大会、秋季大会、障害者大会と県内 外の選手や関係者、観衆の救護体制の中心的役 割を担い、関係機関との緊密なる連携の下、延 べ200 名を超す救護医師の派遣を行いました。
その後も、平成10 年4 月より平成16 年3 月ま での6 年間にわたり沖縄県医師会代議員会議長と して尽力され、永きに亘って沖縄県医師会役員並 びに中部地区医師会役員として本県の保健・医療・ 福祉の向上に多大な貢献を果たしておられます。
また、桑江先生は、昭和43 年より平成元年 まで約21 年間に亘り、学校医として養護教諭 と連携の下、児童・教職員の健康診断、健康教育、健康相談を通して疾病の予防、早期発見並びに 事後指導に努め、健康の保持増進を図り、学校 教育、保健衛生活動の円滑なる運営に大きく貢 献されております。
更に、昭和47 年5 月、沖縄の本土復帰と同 時に実施主体が市町村に移管された予防接種事 業の担当医となり、以来平成16 年3 月までの 約32 年間に亘り、乳幼児及び児童生徒の疾病 の予防に貢献されております。
以上のような桑江朝彦先生のこれまでの長年 に亘るご功績が認められ、この度、日本医師会 最高優功賞受賞の栄に浴されております。
桑江先生のこれまでの御苦労に対し、改めて 深い敬意と感謝の意を表すると共に、今後とも 御健勝でご活躍されん事を祈念いたしまして、 簡単ではございますが、業績紹介を終わります。
この度の受賞、誠におめでとうございます。
この度の當山護先生 旭日双光章受章に際し、 輝かしい数々のご功績 の中から主なものを簡 単にご紹介させていた だきます。
先生は、那覇市医師 会理事を10 年9 ヶ月間、常任理事を2 年間、 会長を6 年間、合計18 年9 ヶ月間務められる とともに、県医師会の副会長を4 年歴任され、 医師会役員として本県の医療・保健・福祉の向 上に多大な貢献をされておりました。
那覇市医師会に於いては、昭和47 年4 月に 准看養成の看護専門学校が設立されております が、建物の老朽化と看護従事者へのニーズの高 まりを解決すべく、當山先生は担当理事として 陣頭指揮に立つ会長を側面から全面的に支援致 しました。建設費確保から教務職員の確保等々 と多忙を極める中、豊見城市に学校敷地を確保 し、これまでの准看護師養成に加え、正看護師 養成の必要性を訴え、正看護師課程を増設し平 成5 年4 月には名称も新たに那覇市医師会看護専門学校としてスタートさせております。
そして、平成6 年4 月からは同看護専門学校 長として4 期8 年間、学生生徒の資質の向上と ともに、教務職員の能力向上のため、県内外の 研修会、講演会への参加を積極的に行い、那覇 看護専門学校の基盤を強固なものとしました。
さらに先生は、昭和39 年に地域医療の拠点 として設置された癌センターが築30 数年を経 て老朽化が激しくなったことを受け、長年の懸 案であった新会館を建設すべく現在地での建て 替えに尽力されました。
平成13 年9 月に完成した新会館は、会議や 研究会が同時に開催できる会員の活動の拠点と なると共に、各種検査も行える検診センターを 併設し地域住民の健康づくりの拠点としても大 きく貢献しております。
沖縄県医師会においては、平成14 年4 月か ら平成18 年3 月までの4 年間にわたり沖縄県 医師会副会長を務められました。当時の稲冨洋 明執行部が掲げる「信頼される医師会」づくり において、県民から信頼を得る為には、対外広 報活動が必要不可欠であるとして、「県民公開 講座」の開催ならびに、「医療に関する県民と の懇談会」および「マスコミとの懇談会」の開 催回数を増やすなど、県民への適切な情報発信 と県民との直接対話を強力に推進しました。中 でも平成14 年末に発表された平均寿命の全国 順位で、本県の男性平均寿命順位が26 位に急 落したことを受け、本県の行く末を案じた當山 先生は県民の健康意識を高め健康長寿県を復活 させるべく「ゆらぐ健康長寿おきなわ」をメイ ンテーマとした県民公開講座の開催に尽力いた しました。その手腕はあらゆる面において発揮 され、時には講師の選任にあたって自ら講師宅 に出向き交渉を行う程、その行動力は誰もが認 めるものでありました。
当公開講座は平成15 年2 月に始まり、既に 22 回を数え、毎回数百名を超える参加者を得、 県民からも沖縄県医師会の定例行事として認知 されるまでに発展しております。また、當山先 生は、「心と体の健康があって始めて目的は成 し遂げられる」として、「健康福祉立県」構想をいち早く提唱し幾度と無く沖縄県当局に提言 をおこないました。
以上のような當山護先生のこれまでの長年に 亘るご功績が認められ、旭日双光章受章の栄に 浴されております。當山先生のこれまでの御苦 労に対し、改めて深甚なる敬意と感謝の意を表 すると共に、今後とも御健勝でご活躍されん事 を祈念いたしまして、簡単ではございますが、 業績紹介を終わります。この度の受章、誠にお めでとうございます。
来賓祝辞
桑江朝彦先生の日本医 師会最高優功賞受賞、當 山護先生の旭日双光章の 受章祝賀会が開催される にあたり、お祝いの言葉 を申し上げます。
桑江先生におかれま しては、皮膚科医師として診療に従事するかた わら、永年に亘り、中部地区医師会等の役員を 歴任し、成人病検診センター建設をはじめ、学 校保健活動や集団予防接種等、地域の医療・保 健・福祉活動に貢献したことにより、今回の受 賞となっております。
當山先生におかれましては、形成外科医師と して診療に従事するかたわら、沖縄県医師会や 那覇市医師会の役員を歴任し、看護師等人材育 成、那覇市救急医療情報ネットワークの構築を はじめ、様々な医師会事業の発展に取り組んで きた功績により、今回の受章となっております。
両先生の功績は、沖縄県の医療提供体制の構 築にも大きく寄与したものであり、そのご尽力 に対し、心から敬意を表するとともに深く感謝 を申しあげます。
沖縄県におきましては、「21 世紀ビジョン基 本計画」を基に、健康・長寿おきなわの推進を はじめ、県民ニーズに即した保健・医療サービ スの推進を図っていくこととしております。両 先生には、引き続き、本県の医療提供体制の充 実発展に、ご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。
結びに、桑江先生、當山先生の今後ますます の御健勝を祈念申し上げますとともに、本日の 祝賀会を催して頂いた沖縄県医師会のご発展と 宮城信雄会長をはじめ会員の皆様のご健勝とご 活躍を祈念申し上げまして、お祝いの言葉とい たします。
謝 辞
本日は、皆さまご多 忙の中にも関わらず、 私達のためにこのよう な盛大な祝賀会を催し て下さり、心より感謝 申し上げます。
先程は宮城医師会長、 中田中部地区医師会長より過分なご紹介を賜り、 またご来賓の与世田兼稔副知事よりご祝辞を賜 り、改めてこの日本医師会最高優功賞の重みを 実感し、光栄に感じているところであり、推薦 して下さった県医師会並びに中部地区医師会に 感謝申し上げます。
中田会長からの紹介を聞き、私がこれまで 数々の職務を歴任し、大過なくやってこれまし たのも、これも偏に会員の皆様、諸先輩方、役 員を一緒に務めて下さった皆様のご助言、ご協 力、事務局職員の献身的な仕事の賜物であり、 心より感謝申し上げます。
私は、11 月1 日の「第65 回日本医師会設立 記念医学大会」に家内と共に出席いたしました。
当日は、都道府県医師会より推薦の個人15 名の中の1 人として表彰を受けました。
その際、日本医師会長並びに厚生労働大臣よ りの祝辞を賜りまして、大変感激し、その間、 これまで私が行なってきた医師会活動が走馬灯 のように頭の中を駆け巡りました。
この感激は、これまで陰で私を支え続けてく れた家内も、同じ思いで聞いていたことと思います。
さて、私の表彰理由につきましては、先程、 中田会長より詳細に話して下さいましたので、私 からは、中部地区医師会館の建設に関わる思い 出話をして、お礼の挨拶と致したいと思います。
中部地区医師会では、昭和47 年、大田会長 の時に、集団予防接種の手技料を積立し、医師 会館建設の資金に充てることが決議され、積立 が開始されました。
その後、昭和56 年、新里会長の時に現在の 北谷町に、土地を購入しております。
私は、昭和57 年4 月に新里会長からの命を受け、副会長に就きました。
当時の中部地区医師会の事務所は、沖縄市役 所近くのアパートの一室を借りて、3 名の事務 職員が働いておりましたが、理事会を開催する スペースも無く、胡屋十字路近くの「環球飯店」で飲食をしながら開かれておりました。
その年の6 月上旬に、新里会長の体調がすぐ れず入院され、急遽ご逝去されましたので、私 が会長代行に就き、10 月には会長に推挙され 就任いたしました。
私が、会長就任後に真っ先に取り組んだのは理 事会の改革でした。会長を進行役として、理事会 中は食事、飲酒は禁止とし、副会長の2 名を総務 と事業部門の頭に置き、定款に沿って担当理事を 決め、それぞれの部門で活動してもらうことによ り、医師会活動も活発になってきました。
次に私が手掛けたのは、中部地区医師会館の建設についてでした。
中部地区医師会は活動拠点がないことから、 知名度も低く、銀行の支店長や、役所の三役、 部長クラスでさえ、医師会事務所がどこにあり、 会員は何名で、どのような活動を行なっている かも知らない状態でした。
そのため、医師会館の建設は絶対に必要であ ると痛感し、理事会で協議を重ね、建設推進を 決定いたしました。
その後、各班に出向き、医師会館の必要性を 三役、担当理事で説明して回りましたが、各班 とも、「建設資金が絶対的に足りず、会費負担 が増えるのではないか」との心配から、当初は 難色を示しておりました。
そこで、会費負担を増やさないで医師会館を 建設、運営する方法の手段として、協議を重ね た結果出た答えが、成人病検診センターを併設 し、そこで利益を上げることでした。
その後、再度各班を回り説明し、理解を求め、 総会に提案いたしましたが、担当理事の説明が終わると、質問や反対意見が次々に出され、喧 嘩さながらの論戦となり、建設は断念するしか ないかと思いながら、あきらめ半分に採決を行 ったところ、なんと賛成が多数を占めており、 自分の目を疑い、再度数えてみても、やはり賛 成が多数であったことから、思わず大きな声で 「会館建設は賛成と決定いたします」と叫んで しまいました。
その晩は、執行部全員で喜びの祝杯を挙げ、 飲み過ぎて翌日は大分こたえました。
中部地区医師会館は昭和63 年に完成しました が、開設から4 年間は赤字が続き、苦労しまし たが、会員の協力により、平成6 年には成人病 検診センターの運営も軌道に乗ったことから、6 期務めた会長を辞任することといたしました。
「継続は力なり」と申しますが、まさにその 通りで、私ごとき者でもこのような大きな賞を もらえました。
これも偏に皆様方のご加護とご支援の賜物だ と心より感謝申し上げますと共に、ご参会の皆 様の今後ますますのご健勝、ご活躍を祈念申し 上げ、簡単ではございますが、お礼の言葉とさ せて頂きます。
本日は誠にありがとうございました。
桑江先生ご家族
桑江先生を祝福する安里哲時先生
桑江先生を祝福する玉城浩先生
宮城医師会会長から 只今大変ありがたい激 励の言葉をいただきま した。そして県医師会 の主催によって私が尊 敬する大先輩桑江先生ご夫妻と一緒に祝宴をしていただきます事、本 当に心から厚く御礼申し上げます。ありがとう ございます。
おそらくお集まりの皆さん方も日々忙しく、 お仕事そして患者さんの事を案じながらお暮ら しの事と思いますが、そういう忙しい中、多く の方々が集まって祝宴をしていただき、この上 も無い感謝と誇りに思っております。私の医院 の顧問弁護士でもあります与世田副知事には温 かいお言葉と激励のご挨拶をして頂き本当にあ りがとうございました。
又、真栄田先生から私の経歴をお話して下さ いましたが、私の外国人の友人マーシャルや、 母校からも何故授与される事になったか数日前 に問い合わせがありました。実は私はまったく 何をしたか本当の所分からない状況で、淡々と あたえられた県医師会や那覇医師会の仕事をや りとげてホットしている身分でございます。
こういう叙勲をいただく時に内々で連絡がご ざいます。春の叙勲を受けられた友寄先生から 次は貴方ですから是非受けるようにと言われま した。その後真栄田会長や県医師会の事務局長 からも是非受けるべきと言われました。帰って うちのかみさんに叙勲の話があるが断るべきか と言いましたら、「あなたは自惚れている、自 分一人でこの尊い叙勲を貰えると思ったら大間 違い、皆様方のおかげであなたは今ここに生き 長らえています。家庭では私が一生懸命支え、 そして皆さんでいただいた勲記勲章なのに、自 分勝手な事を考えないように」言われました。 そういう所で今日晴れの祝宴を迎える事がで き、たびたび申し上げますが嬉しさいっぱいで ございます。
私は美容外科の仕事をしております。私は 60 年日米安保条約の時は国会議事堂でデモの 中におりました。18 歳の時でした。日米安保の始まりでございます。その後警察病院に勤め ました。今度は70 年に安保を守る立場であり ました、その時期にクリスマスツリー事件や成 田闘争等があり激しい焼けどの処置を沢山致し ました。それから8 年ぐらいの年月が過ぎて、 警察病院にいた人達が全国の各大学の教授にな りました。
私は父のあとを継ぎました。その当時は沖縄 に形成外科は一人もいませんでしたので時々 方々の病院に呼ばれ、お手伝いをさせて頂きま した。そのうち沖縄にも沢山の形成外科医がう まれ出ております。私は美容外科医をやってお りますが美容外科医にも色々あり、ここにおら れる先生方は立派な方々です。これは医師会に 入り、皆様と共に色々お話して医の倫理を学ん でおられるからだと思っています。私も美容外 科学会に出て時々そういうお話をさせて頂ける ような立場になったのもひとえに皆様方のお力 です。そして天皇陛下からこのような叙勲をい ただく事になりました。これからも粉骨砕身一 生懸命家内共々何か世のお役に立っていきたい と思っております。そしてノーベル賞を目指し ていきたいと思っていますのでぜひ、よろしく お願いいたします。本日はお忙しい中、私と皆 様方で一緒にお酒を飲める時間をもてたのも大 変幸福に思います。ありがとうございました。
左から中村先生、當山先生、与世田副知事、伊志嶺先生
左から當山先生ご夫妻、伊集守政先生
左から安里先生、當山先生、上村先生、大山先生