上村病院 山内 昌紀
人生 60も目前に迫ってきた。巳年に因んで 思い出を中心に自分史を述べてみたい。
私の出生地は沖縄県石川市で小学校は宮森小 学校であった。例の宮森小学校米軍ジェット機 墜落事故の時は小学一年生であった。給食のミ ルクを飲んでいると突然の爆発音があり教室の 外に出ると炎と黒煙がモクモクと上空まで上が り凄まじい状況になっていた。大パニックの中 でわけもわからずに一目散に家に逃げ帰った のを思い出す。運良く兄 2 人も無事であった。 F100 スーパーセイバーの墜落であった。この 時のパイロットはパラシュートで脱出した。そ の後も米軍機はよく落ちた。それでは現在に戻 って今話題のオスプレイはどうか?パイロット や乗組員は飛行中は機外には脱出できず、かと いってヘリのようなソフトなオートローテーシ ョン着陸はオスプレイのあの短いプロペラと重 い機体では求めても無理がある。さらに見るか らに複雑な姿勢制御システムは “人為的ミス” を誘発する事故をすでに起こしておりある意味 欠陥機、いや棺桶機ではないのかと思う。空飛 ぶ棺桶機が又も我々の上に落ちないことを祈る しかない。話がだいぶ脇道にそれたがさて幼小 期を過ぎて大学に入る。昭和 47 年 4月に長崎 大学医学部に入学した。ちょうど本土復帰をし た年である。大学生活は人生のレールの上にう まく乗れたという安堵感で毎日が嬉しくてたま らなかった。しかし学業の面では怠慢によるエ ンジン不調でいつも低空飛行をしていた。大学 では高校時代にやっていた卓球部に入った。京 都で西医体があった時団体準優勝をしたがその 後の後夜祭で鴨川の河川敷で清酒の樽酒を升で 飲んで感激したのを覚えている。今でも当時の 卓球部の先輩後輩あわせて 12 〜 15 人程度で毎 年秋に 1 回集まっている。さすがにピンポンは やらないが九州の各地をゴルフをしては夜は宴 会をして楽しんでいる。青春時代の真ん中にタ イムスリップできる貴重な時間である。今とな っては長く楽しかった(?)学生生活であった。 大学を卒業して運良く県立中部病院に入れた。 最初から産婦人科を目指していたので大学の先 輩の Y 先生が部長をされていた OB-GYN に進 んだ。毎日が手術の連続であったが思い切り手 術をやらせてもらえた環境にたいへん感謝して いる。それから沖縄市内の上村産婦人科病院に 勤務した。以来約 7 〜 8 千人の分娩に立ち会っ たことになる。
さて 60 才を目の前にしていざ自分というも のを内省してみると未だ修養至らず内容の無さ に我ながら情けなくなる。仕事上はある程度の 達成感はあるものの “魂” の分野での修養がか なり不足気味で、無の境地といえば格好いいの だが中味が何もないのとでは意味が違う。不惑 の年をとうに過ぎているのにあるべき確固とし た生き方、価値観 思想 哲学といったものが “無 の境地” に近い。こんなはずでは無かった、忙 しさにかまけてろくに本も読まず、安易に情報 雑誌やインターネットに走り、好きなことだけ をやってきた付けが今頃まわってきたのだ。イ ンターネット等では知識は確かに入り物知りに はなれる。しかしそれは知識を受け取るばかり で受動的すぎて思慮という行為がなされていな い。知識というものは方向性を持たせて集約し ないとあまり役に立たず、物事の道理も身につ かない。“魂” にも読書という食料を与えて反 芻するぐらい消化してあげないと馬鹿みたいな 老人に仕上がってしまう。“学びて思わざれば、 すなわちくらし” である。今年は人生の総括に 向けて遅まきながらしかし急いで準備に取りか かろうと思っている。馬齢を重ねてきただけの 人生だが巳年に因んで脱皮でもして今後の人生 に立ち向かいたい。