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沖縄と私とヤンバルと

上田 裕一

もとぶ野毛病院 理事長  上田 裕一

転地療養で訪れたのが 41 歳の秋ですから私 と沖縄とのかかわりは 30 年を越えた。暖かく て気持ち良く汗をかける沖縄は最高です。冬に なると屋内に閉じ込められ、布団をかけても肩 から冷気が入ってくる内地との違いだ。沖縄定 住以前は獨協医科大学。その病院からの度々の 緊急呼び出しで、車に乗り込んだらフロントガ ラスは霜で前が見えず。車内は冷蔵庫、窓を開 けて前方を見ながらの運転では顔は氷付いてし まう。沖縄の冬は内地でいえば秋。晴れれば初 夏。凍え死なない沖縄は命にとって楽園です。 本土で「夏は暑いでしょう」と言われても自然 があって木陰での涼しさは格別。その光に照ら されたコバルトブルーの海、リーフの白波、水 平線に向かう藍色の広がり。満天の星空には天 の川がまさにミルキーウェイ。体温を越える気 温となるヒートアイランド現象などは今でもヤ ンバルには無い。

山紫水明の名護はヤンバルの中心。本部半島 の海岸線を右回りにスイスイ走ると、左に本部 新港、さらに山中長官の置き土産の瀬底大橋。 大浜の埋立地にある当院を過ぎて本部大橋を渡 ると広々とした海。島の中央にタッチューのあ る伊江島が見える。そして平たい水納島と景 色は抜群。今や瀬底島は『サンフランセソコ』、 水納島は東洋の『タヒチ』。世界一とも云われ る美ら海水族館のある沖縄海洋博記念公園は本 部町を含むヤンバルのシンボル。

その海洋博覧会が催された時期、「山原」の 医療状況は県立名護病院だけ。その後福寿草、 光武病院、本部記念病院、北部病院、もとぶ野 毛病院。平成の時代に入り医師会病院、勝山病 院、循環器センター(医師会付属病院)と充実 して隔世の感ありです(病院名は当時のもの) 特筆はわずか 27 名の北部地区医師会会員が資 金も無い上に運営の苦しさを百も承知で、検診 センター(昭和 59 年)を立ち上げ医師会病院(平 成 3 年)にレベルアップしたこと。地域の極度 の病床不足を解消すべく決意をしたことは「山 原」人の意気込み。

そのおかげで現在の会員数は 4 倍。増えたの は医師数だけではない。地域医療・保健を担う のには看護師も他の医療関係職種をも豊富に必 要。当時名護市は学園都市構想を持っていた。 その機運に乗じて地区医師会は医療の質をさら に向上させるために短期間で平成 5 年に北部看 護学校を立ち上げた。その 4 倍の受験者数が追 い風となって、平成 6 年には名護に名桜大学が 開校した。その後保健・医療系の学部・学科も 新設し公立化を成し遂げ更なる発展をしている。 今では北部地域での正看護師養成数は年間 160 人であり、これまでに北部地域の病床数の 2 倍 の 2,000 名近い正看護師を誕生させている。実 際、当院はこの 20 年間に療養病床 150 床で 148 人の正看護師を誕生させた。今や「山原」が中 南部に水ばかりではなく、正看護師という医療 資源を供給する「ヤンバル」までになっている。

自然物だけではなく、人材を供給するヤンバ ル。今は亡き岸本建男元市長持論のヤンバル逆 差別としての医療貢献です。この正看護師の資 源力は、地域中核病院としての県立北部病院と 北部地区医師会病院の両者を支えるに十分有り 余ります。これはヤンバルの力です。平成 3 年 医師会病院開設時にはこの様に地域連動型で発 展するとは予想だに出来ず、この資源力を活用 する構想までにはさらさら至らずでした。実際、 当院はこの 20 年間に療養病床 150 床で必要看 護師数 40 人余りだが、148 人の職員を正看護 師に養成してきた。

北部地区医師会会員が、地域の医療関係者が、 そして北部地域の人々が、この資源力活用の新 たな構想を持って北部地区の医療再編・発展に 向けて力を結集していくことを本年の年男とし て夢見ています。そして県医師会の皆様、そし て地区医師会のご発展と共に県医師会の益々の ご活躍を願っております。