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平成 24 年度那覇空港・航空機事故対策総合訓練

大城 修

理事 玉井 修

毎年行われてきた那覇空港防災訓練の開催が諸般の事情により昨年度行われなかった事は大変残念に思っていた。東日本大震災の発生もあり、この様な時期にこそ大規模災害に対する対応が問われるものであり、万難を排しても執り行われるべきであったと思っていた。那覇空港事務所には県医師会より訓練を執り行うべく、積極的に働きかけを行い、今年度は過去最大規模の参加団体と参加人数による大規模な訓練が執り行われた事は評価できる事だと思う。また、この様な訓練は常に振り返りと繰り返しが重要であり、今後もよりブラッシュ・アップした訓練が行われるよう関係機関と綿密な協力関係を維持していきたいと考えている。まだ記憶に新しい 2007年の中華航空機炎上爆発事故の教訓もあるが、残念ながら私たちに課された課題はまだ充分に解決できていない。今回 10 月 11 日(木曜日)午後に行われた訓練の模様を報告し、今後の反省を含めてレポートしたいと思う。

【事前の準備】

那覇空港・航空機事故対策総合訓練においては、実働部隊として県内の DMAT(Disaster Medical Assistance Team)に加えて那覇市医師会から小緑班を含めて医療チームが那覇空港に駆けつける事になっている。これまでの訓練では救護班として派遣される医師、看護師に大規模災害時のトリアージに関する共通理解が不充分であった反省から、今回は参加する医療班には事前に DMAT 標準テキストよりトリアージに関する文献を配布し、現場でのトリアージタッグの記載に関しての事前情報を提供した。那覇市医師会救急担当理事の外間実裕先生との打ち合わせで、今回の大きな目標として、これまで不充分であったトリアージタッグの記載をしっかり行う事、傷病者の経過観察をしっかり行い不測の急変に対応する体制をしっかり維持する事等が話し合われた。そして、那覇空港事務所内に設置される合同対策本部には沖縄県医師会救急医療副担当理事である照屋勉先生に入って頂き、私は現地の救護班として入りいくつかの事を実験した。現場で毎年課題となる情報の伝達にトランシーバーは機能するか?中華航空機炎上事故の際に検問によって現場に入れなかった苦い経験を生かして、沖縄県警のパトカー先導による災害現場誘導は有効に機能するか?という課題だった。

【現場出動!】

訓練当日、13時15分に那覇市医師会館に医師5 名、看護師 7 名、事務職員 3名が集合し、お揃いのベストとヘルメットを着用し簡単な打ち合わせを行い車3 台に分乗して那覇空港に向かった。那覇市医師会館の前には赤色灯を回転させてパトカーが待機しており、パトカーの先導によりうみそらトンネルを通って那覇空港に入った。非常に短い時間での現地入りで、これが本当に機能すれば医療チームが災害現場に入れる可能性が高まる。今後もこの様な医療班と県警などとの連携は必須であるとの思いを強く感じた。

【現場での救護活動】

10月11日は台風の影響で、那覇空港滑走路は風速12m の強い風が吹き、救護所テントは強風の為に設置できないという状況であった。事前に配布された県医務課のトランシーバーは各 DMATとの周波数も申し合わせて計 12 台のトランシーバーにより現場の情報伝達は確保される予定だった。発災時刻 15 時になったところで、現場合同指揮所が設置され医療班はその持ち場の指示を仰ぐため合同指揮所にリーダーが招集される。各医療班の持ち場が割り振られて、救護所で待機していた。私は第 3 救護所(緑)のリーダーとして現場に入ったが、発災現場から 1 次トリアージを受けた受傷者が担架で複数第 3 救護所に搬送されてくる。第 3 救護所は軽傷者の救護所で自立歩行可能な受傷者のための救護所であり、基本的に歩行不可能な担架搬送は想定していない。ここで本来ならば現地合同指揮所に現状の報告を行い、1 次トリアージの精度確認をすべきであったが、トランシーバーは強風のため全く聴取できず機能しない。その頃現地合同指揮所医療班リーダーで赤十字病院 DMAT の佐々木秀章先生も事態があまり思わしくない事を察知し、救護所担当のリーダーに連絡を取ろうとしていたらしいが、ここでもトランシーバーは全く機能しなかった。強風、悪天候下では不慣れなトランシーバーによる情報伝達はかなり困難であるという教訓を得た。伝令による情報伝達を試みたが、混乱する救護所においてリーダーの位置は結局判断できず、現地合同指揮所と救護所の情報伝達ラインは最後までうまく機能できなかった。一方、那覇空港事務所内の合同対策本部では県医師会の照屋勉先生が遅々として入ってこない現場からの情報に対してトップからの指令を出せずにジリジリしていた。その時救護所では、悪天候下での患者把握、バイタル情報の継続取得、急変患者の対応、後方搬送への対応に追われて、シッチャカメッチャカの状況であった。この状況の中で私は救護所班長として、自分が動き回る事無く、自重して全体の把握に心がけ、冷静にコマンダーとしての役割に努めるべきだったと反省している。せっかちな性格上、自分自身が走り回ってしまい、班長としての役割を充分に果たせなかった事は猛省している。もっと泰然自若に構える気持ちの持ちようがリーダーに求められていると思った。この様な中、南部医療センター救急部の林峰栄先生は救護所の前に腕組みをして立ち、救急隊と自衛隊、担架班との連絡調整を淡々と行っていた事は大変印象に残っている。私なら目の前の患者さんへの対応に自ら手を出してしまいそうな状況にも、じっと耐えてコマンダーとしての役割に徹する態度は大変参考になった。訓練の後半、火災を起こした航空機への放水訓練が実施され、強風 12m の風下に救護所が設置された私たちに容赦なく冷たい水が浴びせられる。何も出来なかった無力感と、寒さと強風による疲労感が私を襲い、全く達成感の無い状況でずぶ濡れの状況で時間が過ぎていく。目の前の傷病者役の看護学生たちも毛布にくるまり、寒さに耐えていた。我々医療人は、この様な状況にあっても笑顔で患者さんに少しでも落ち着きを取り戻そうとする本能が働く。この様な姿は遠目では不謹慎な笑顔に映るらしい。今回参加した複数の関係者から医療班の笑顔が場にふさわしくないとの指摘を後日受けた。しかし、我々はふざけて笑顔をしていた訳ではない。もっと近くで見ていただければ我々が一体どの様な声をかけながら笑顔で患者さんに接していたかが理解していただけたはずである。どの様な状況にあっても患者さんに対する笑顔を絶やす事が無かったことこそ、誇るべきであると思った。ふと目を移すと、第 1 救護所(赤)では挿管された患者さんがまだ 5 〜 6 名ほど後方支援を待っていた。実際にこんな事があって欲しくない光景だった。

【訓練終了の 16 時がやってきた】

訓練終了の時間がやってきた。結局時間内に挿管された患者さん 5 〜 6 名を含めた多くの中等度〜重症患者さんの後方支援病院への搬送は出来なかった。情報伝達の問題。各救護所間の連絡体制の問題、後方支援病院への搬送体制の問題など多くの反省材料があるが、この様な悪天候の中何が大切なのかを吟味する上で又とない機会となった。自分自身への課題も多く見つかった。この様な訓練を繰り返し実施する中で熟成されていくノウハウ、人脈がいつか私たちに降りかかってくる広域災害の糧になると信じている。想定外の事が起きるのが災害である、しかし、想定を拡げ、万が一の為に出来るだけの備えをする事の大切さを東日本大震災の経験が教えてくれた。現場医療支援に東北に赴き、そこで感じたのは、助け合う事の大切さである。人智を超えた災害に対しても、人は手を取り合っていつか再生するのである。