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銀閣寺

中村義清

中村医院 中村 義清

去る4 月に、第109 回日本内科学会並びに 日本臨床内科医会総会が京都で開催された。京 都を訪ねるのは十数年前の内科学会開催以来で あるので久し振りである。

土曜日の晩に、内科医会の伊集守政会長と京 都料理に舌鼓を打ちながら日本酒を熱燗で結構 飲み干した。その日は寝つきも悪く二日酔する のではと心配したが、意外にも翌朝の目覚めは すっきりしていた。取り敢えず「みやこめっせ」 での内科学会の受付を済ませた後に日本臨床内 科医会総会が開催される「京都国際会館」に向 う手はずであるが、少し時間的に余裕があるの で「銀閣寺」に立ち寄った。

銀閣寺道から銀閣寺に至る長い参道である が、総門まできれいな石畳が続いている。総門 から中門までの参道の両脇は、まったく見通し のきかない高い生垣が約50 メートル続いてい る。その生垣は、椿の枝を丁寧に切り揃えてで きた緑の塀で「銀閣寺垣」と呼ばれ、而も、4 月であるので椿の花がちりばめられ美しい光景 であった。

そこを通り抜けると銀閣寺の庭園と本堂が目 に飛び込んできた。決して大きくはないが、手 入れの行き届いた庭園の一部には白い砂が敷き 詰められていた。あまりにも不思議な光景なの で後で調べてみた。

本堂の南面にあるほぼ四角の砂盛りを「銀沙 灘」(ギンシャダン)と言い、高さ約60cm の 壇状になり南の部分は大きく湾曲し、上面には 美しい線状の縞模様が描かれている。灘(ダン) とは、大海原を意味し中国の西湖を模っている とされる。その南に接する高さ約180cm の円 錐盛りの「向月台」は、月を鑑賞するためのものだそうで、初めて見る人に不思議な印象を与 える。

日本の建築は、屋根と柱と壁の構造によって、 光を横から或は斜めから取り入れる仕組みにな っている。「銀沙灘」は見た目の美しさだけで なく、太陽や月の光など、自然の光の反射を室 内の明かりとして採光する役目も果たしている という。「銀沙灘」に使用されている砂は白川 砂で、花崗岩が細かく砕けてできた京都特産の 砂である。光の反射率は、雪のそれにほぼ匹敵 するそうで、因みに、雪の80 〜 98%に対し、 白川砂のそれは80%であると言われている。

観光客の中に外国人が数名おり熱心に観覧し ていた。室町時代の高度な技術で造り上げられ た「わびさび」の世界が、外国人の目にどう映 り、なにを感じているのか聞いてみたい衝動に かられた。しかし、質問は何とかできたとして も、相手が答える微妙な感覚的表現を聞き分け る自信が全くないので止めることとし、銀閣寺 を後にした。

日本臨床内科医会総会は、10 時に開催され た。会長挨拶後に、協議・報告事項があり、引 き続きメインの2 席の特別講演「1)平成24 年 度診療報酬の改定について、2)糖尿病のインス リン療法−私の糖尿病60 年」が行なわれた。

総会の途中で、恰幅のいい貫録のある老医師 がかけより、「もしかして東風平の中村義清君 ではないかと」と声をかけられた。一瞬、見慣 れない方なのでドキッとしたが、お顔をじっと 見ますと中学・高校時代の2 期先輩の野原孝清 兄であることに気がついた。先生が鳥取大学医 学部の学生時代に一度会ったことがあるので、 逆算すると54・5 年振りの再会である。旧東 風平村(現八重瀬町)の出身で小・中・高校と 学び舎を共にした三人が、期せずして医学の道 に進み、こうして会うことは全くの奇遇である。

先生は、京都府の救急病院に鳥取大学から 派遣されたのがきっかけで、京都に移り住む ようになられたようである。元来は外科医と して招聘されたが、救急病院なのでどの科の 患者への対応も求められ、脳外科も併任されていたと言う。救急病院時代が長かったこと もあって府の内科会の先生方とも懇意になり、 当日は京都府内科医会の役員の要請で出席さ れたそうである。

三人とも揃って懇親会に臨んだが、先生は京 都府内科医会の余昌英会長とは昵懇の間柄で、 伊集会長と共に余会長に紹介された。

暫時ではあったが、昔を懐かしみながらの懇親、誠に有意義であった。

懇親会が進むにつれ、野原先生が一時期の京 都府医師会の重要な役割を担われ、そして今は 重鎮としての位置におられることを、壇上で挨 拶される先生方や内科会の主だった役員の方々 との接し方が雄弁に物語っていた。その光景を 見て、ある種の誇らしさを感じながら懇親会場 を後にし、帰路についた。