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回顧録
〜琉大病院内科創世記〜

大浦孝

医療法人十全会 おおうらクリニック
大浦 孝

復帰40 年。琉球政府より沖縄県となって日 本国憲法の下に入った。明治維新以来徹底され た皇民化政策は沖縄戦とともに終焉し、戦後は、 米国によって民主主義が宣言された。しかしな がら日本国憲法下の民主主義と戦後沖縄の民主 主義とは異質のものとして齟齬(そご)が生じ た。沖縄ではあくまでもアメリカ軍占領下の民 主主義であった。

復帰40 年はこの齟齬を修復する期間であっ た。これは又、日本国憲法を検証する実験でも あった。いかなる憲法の下に沖縄は存在するの であろうか。これは今日的課題でもある。復帰 後あらゆる社会基盤が整備され著しい進歩をと げた。同時にあらゆる分野で歪みと格差が顕著 になった。

私は戦後この世に生を享けた。沖縄で医療界 に身を置いて30 年余となった。戦後社会の変 遷を実体験したし、医療界の統廃合の過程にも 当事者として遭遇することになった。特に国策 である琉大医学部の設置の過程で医療活動に従 事していた。そこでこの節目の年に個人的な体 験の一部始終を記録に留めることとした。

保健学部の誕生

その頃、琉大病院は那覇市にあった。40 年 前の話である。

琉球大学医学部の前身である保健学部が与儀 にあり、そこに琉大病院が建てられた。現在の 沖縄赤十字病院の敷地である。白亜の十二階建 てのビルで那覇の中心地でも目立つ建物であっ た。周辺には与儀公園があり、市民会館があり、 県立那覇病院(現: 看護大学)もあった。

新病院の職員は旧県立那覇病院より移籍した 「地元勢」を中心として「本土勢」と混成していたので、多種多様の人間模様を織りなした。 即ち、新設医大の設立準備段階として母体校が あって、そこから教職員が派遣されていた。時 の総理大臣佐藤栄作氏は日本医師会長武見太郎 氏と協議した。武見太郎氏は母校の慶応大学へ 協力を要請した。その結果、慶応大学が中心と なり国立大学4 〜 5 校が参入していた。新潟大 学、長崎大学、熊本大学、鹿児島大学、遅れて 九州大学、更に私立では久留米大学であった。

教授、助教授、講師等のほとんどの幹部役職 には母体校よりの派遣職員が着任していた。い ずれの科も少人数で日常の臨床診療を遂行する にも人手不足であった。その後研究棟が増築さ れ動物舎ができ、動物実験も手掛ける様になっ た。実験設備、器具も徐々に整備されていった。 この各大学の混成部隊が紆余曲折を経て新設の 医学部の中枢部へ昇格した。その頃、医学部の 学生はまだおらず、保健学部であり、保健学科 の学生が在籍していた。

日本復帰の際、政府は苦肉の策として、日本 では最初にして最後となる保健学部を設置し た。その時、保健学部附属病院内科の初代教授 は故桝屋富一氏であった。桝屋教授は名門九州 大学の内科学教授であったが、琉大保健学部の 創設を機に移籍した。教授の専門は貧血の病態 を中心として、寄生虫学、特にフィラリア症を ライフワークとしていた。

桝屋教授は臨床研修にも厳格で、特に教授回 診には厳しいものがあり今では伝説となってい る。教授回診前日には、晩ともなると検査室が 満員となり、血算、検尿、検便等初歩的な検査 は自前で行い、検査結果を揃えて翌日の回診に 間に合わせた。当日、教授の質問は厳しく緊張 の余り小便をチビッた者もいたという。当時は 研修システムも未整備で、特別のカリキュラム はなく、いわゆるマンツーマンの上下左右の人 間関係の中で修練をつんだ。又、学会を中心と した専門医制度もまだ確立していなかった。保 健学部には大学院はなく、従って琉球大学には 学位の審査権がなかった。即ち学位制度も確立 していなかった。

そこで桝屋教授は苦肉の策を講じた。学位取 得のため1)鹿児島大学医学部へ研究生として籍をおく。2)研究テーマを決め、研究の遂行は琉 大の保健学部で仕上げる。3)年季がくれば論文 を仕上げて鹿大へ提出する。鹿大が審査し学位 が授与され、医学博士が誕生した。これで医術・ 医学の形が伝授されることとなった。大部分の 研究テーマは教授の専門である「フィラリア原 虫の夜間行動に関する研究」であった。太陽光 線と原虫の生態・行動(リズム)を検証するも ので、今でも永遠のテーマである。

総合医局の時代

昭和52 年(1977 年)5 月、私は卒後6 年に 帰郷して、その附属病院の第二内科へ奉職した。 当時は各科を統合した総合医局があり、別に内 科医局、外科医局が隣り合わせで交流していた。 後に第一内科、第二内科、第一外科、第二外科 と分離独立した。しばらく間をおいて第三内科 は発足した。内科は総勢十数名で、北は弘前か ら南は鹿児島までの各大学を卒業した「留学生」 が帰還していた。糖尿病・代謝・内分泌・脂質、 循環器、呼吸器・感染症、消化器、血液、腎・ 膠原病、神経と、内科の全領域を網羅した診療 体制であった。

二代目教授三村悟郎先生が主宰され、故佐久 本政紀助教授、故普天間弘講師、故佐久本健講 師・医局長が指導教官の布陣であった。その頃、 新卒の研修医の入局は皆無で、卒後研修システ ムも未整備であった。それでも2 〜 3 年後には 初めて3 名の新卒者が入局して、賑やかになっ た。研究棟には研究室、実験室があったが、日 常臨床診療が多忙で、基礎的研究の継続には不 十分であった。フィールドワークとして平安座 島の住民診療、ハワイの沖縄県人の住民検診等 のデータが集積され、沖縄県民の血圧、脂質及 び循環器疾患等の疾病構造が初めて明らかにな った。

私は韓国のソウル大学と提携して韓国人糖尿 病患者のHLA をタイピングして日本人との差異 を比較した。これは三村教授が主催して沖縄で 開催された日本糖尿病学会で発表した。この仕 事はソウル大学の金教授、東海大学の辻教授及 び三村教授による共同研究であった。更には沖縄県の膠原病患者のHLA をタイピングして北陸 地方の膠原病患者の臨床像との差異を比較検 討した。この仕事は三村悟郎教授の御指示によ り、東海大学医学部移植免疫学辻公美教授の下 で、免疫学の基礎と実験方法を修得した後、金 沢大学医学部第二内科竹田亮祐教授の御指導に より、学位論文としてまとめ、そして母校の金 沢大学へ提出し学位を取得した。

その頃の医局の雰囲気はアットホームであっ た。昼休みには鶴丸弁当を売店で買い、皆で食 事をしながら囲碁大会となった。囲碁の猛者が 多数おり、他科からも腕に自信のある御仁が来 訪して他流試合となった。常時三卓程並び、観 戦者は立見席となった。

野外では野球が盛んであった。内科でも正式 に野球チームを結成し、全員ユニホームも新調 した。基礎体力造りにはじまり、ピッチング、 バッティング、守備練習と本番に備えた。土曜 日、日曜日には野球場を借り切り、各科対抗の 試合が開催された。腕に自信はあるが、不慣れ のピッチャーがおり、投球したとたん腕の骨を 折ってしまった若者がいた。内野陣は「ガシャ」 とかいう骨折の音を皆聞いており、後々まで語 り草となった。

屋内外共にアットホームであり、仕事の面で も自ずと診療ネットワークが形成され、内科・ 外科・他科とスムーズに連絡網が巡り、事が運 ばれた。まだ講座制ではなく、いわゆる壁のな い各科の医局が寄り集まって診療集団を形成し ていた。後にこの集団から那覇市立病院の設立 に参加したし、その他各自、沖縄の医療界の各 分野へ分散していった。更に数年してこの診療 集団を元に琉球大学医学部が正式に発足し、那 覇市与儀より西原町へ移転、日本で最後発の医 学部となった。それから続々と学生が入学し、 琉大医学部の新しい歴史の一頁が始まることと なった。現在では名実ともに沖縄医療界の中核 となり今日の隆盛に至っている。

歴史とは客観的事実の羅列ではなく、主観的なエピソード(挿話)の織りなす叙事詩である。
−西尾幹二「国民の歴史」より−