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インパール作戦とビルマの竪琴

長嶺信夫

長嶺胃腸科内科外科医院  長嶺 信夫

1.夜香木とインパール作戦

念願だったビルマ(ミャンマー)の旅の最終 日、ヤンゴン(ラングーン)の民家の庭先で懐 かしいあの「夜香木」が咲いていた。

夜香木は、夏の夜、ほのかにジャスミンに似 た甘い香りをただよわせる常緑低木で黄白色 の小さな星形の花が円錐状の花序で咲く、別 名、夜香花、中国名で夜香樹と呼ばれるナス科 の植物である。幼少の時以来、庭で咲いていた その香りに魅了されてきた。「初恋の香」でも ある。その夜香木がビルマの民家の庭先で咲い ていた。

5 〜 6 年前だっただろうか、第二次世界大戦 中、インパール作戦に従事した日本兵が、戦後 ビルマから持ち帰った夜香木を挿し木で増や し、戦死した戦友の家を訪ね歩き、その苗を霊 前に供えていることを報じた新聞を見た。当時、 すでに戦後50 年が経っていた。長い年月が経 っても、戦死した戦友を心にとめ、慰霊の旅を 続けているその姿に、深く感動したのを憶えて いる。

インパール作戦は第二次世界大戦で日本軍と 戦っていた中国国民党軍を支援するため、米英 の連合軍が計画を進めていたインド東北部レド からビルマを経由し、中国の昆明にいたる輸送 路、いわゆる援蒋ルートの開設を阻止する目的 で日本軍がしかけた作戦で、連合軍の前線補給 基地であるインパールを攻略し、占領する作戦 であった(写真1)。

日本軍がビルマに侵攻したのは1942 年1 月 のことである。3 月に首都ラングーン(ヤンゴ ン)を制圧、5 月にはビルマ全土を支配下においている(写真1)。

写真1

写真1.インパール要図、高木俊朗著「抗命」より

当初、ビルマ戦線で優位に立っていた日本軍 もインパール作戦開始時には、すでに制空権を 米英の連合軍に奪われ、ビルマからインパール に撤退したイギリス軍も万膳の防備体制を整え ていた。

インパール作戦は1944 年3 月8 日、チンド ウィン河の渡河から開始された。チンドウィン 河はビルマの西方を流れる川幅1,000m 近い大 河で、雨季には濁流と化し、渡河が困難になる 大河である。河を渡るとその西方のインド・ビ ルマ間に2,000m を越すアラカン山系があり、 インド東北部の英軍の拠点であるインパールに 至るにはチンドウィン河の渡河に加え、このア ラカン山系を超えなければならない。アラカン 山系は急峻な山々が複雑にかさなり、その間に 深い谷や川が入り組んだ地形で、雨期になると、 泥流が流れるジャングル地帯である。しかも、 熱帯マラリアやアメーバ赤痢が蔓延する地帯と いわれていた。

日本軍は東南アジア方面を統括する南方軍 (寺内寿一元帥)の下にビルマ方面軍(河辺正 三中将)があり、その配下に牟田口廉也中将が ひきいる第15 軍があった。第15 軍は第31 師団(佐藤幸徳中将)、第15 師団(山内正文中将)、第33 師団(柳田元三中 将)で編成されていたのであるが、作戦開始時、作戦を遂行する十分な輸送手段や補給物資はな く、作戦は困難視され、ビルマ方面軍の河辺中 将以外ほとんどの担当参謀がこの無謀な作戦に 反対していた。その最大の理由は、国境を越え、 インドまで進攻するには、後方からの十分な補 給が不可能ということであった。

日本軍はわずか20 日分の食料しか携行せず、 装備や食糧の運搬は、主に人力、牛馬、象に頼 っていた。案の定、チンドウィン河の渡河で、 半数の牛が溺れ死に、残った牛も急峻な山では 役にたたず、その後は、人力で食料や重い装備 を背負い、急峻な山道を進まなくてはならなかった(写真2)。

写真2

写真2.NHK 取材班編
「責任なき戦場 インパール」の表紙写真

牟田口司令官は天皇誕生日である天長節の4 月29 日までのインパール攻略にこだわってい た。第31 師団は4 月5 日にイギリス軍の要衝で、 ディマプールとインパールを結ぶ戦略上の重要 拠点であるコヒマを攻略したものの、すでに弾 薬や食料は底をつき、後方支援のないなか苦戦 を続けていた。

これに対し、制空権を握っている連合軍は、 インパールに補給物資を空輸しただけでなく、 既に日本軍勢力下にあったジャングルさえ切り 開き、滑走路を開設し、銃器、弾薬、食料を供 給するとともに、小型機を使って、自軍の負傷兵を後方に運んでいたのである。

第31 師団が、コヒマを攻略したものの、後 方支援のとだえた第15 師団、第33 師団はイン パールにたどり着くことができなかった。5 月 になると雨季に入り、糧食尽きた第31 師団の 佐藤師団長はついに6 月1 日、第15 軍司令部 に「師団長独断処置スル場合アルヲ承知セラレ タシ」と打電し、撤退を開始せざるをえなかった。

撤退を余儀なくされた兵士は、飢餓や傷つい た体でジャングルを通り抜け、ようやくチンド ウィン河岸に到達したものの、雨季で濁流と化 した河の渡河は困難をきわめ、溺死するものが 多く、中には絶望のあまり、自ら濁流に身を投 げるものもあったという。

インパール作戦には、日本軍は約8 万6 千人 が参加し、その中3 万人が戦死、傷病兵は4 万 人といわれている。糧食がつき、日本軍が撤退 する道は「白骨街道」と称されるほど、いたる ところに死体が横たわっていた。

インパール作戦に従事した兵士が作戦中くた くたに疲れた体を横たえたジャングルの中で、 何処からともなく夜香木の香りがただよってき たのであろう。遠く日本をはなれたビルマの山 野で、その香が戦場でのすさんだ心を慰めてく れた。

ビルマ戦線から、かろうじて生還した人達は、 悲惨な最期をとげた戦友をいつまでも忘れるこ となく、戦友の御霊を慰めるため、ビルマの夜 香木を戦友の霊前に届け、深い祈りを捧げたの である(写真3)。

写真3

写真3.古都・バガンの仏塔 遠くインパール方向を望む
(2012 年2 月10 日撮影)

2.ビルマの竪琴

「おーい 水島、おーい 水島、一緒に日本に帰ろう!」

イギリス軍の捕虜になった日本兵の捕虜収容 所前で、ビルマ僧の肩にとまったインコが呼び かけるシーン・・・映画「ビルマの竪琴」のひ とこまである。

「ビルマの竪琴」はドイツ文学者の竹山道雄 が終戦直後に書いた同名の小説を映画化したも のである。筆者も映画を見たことがある。その 後、「ビルマの竪琴」は記録フイルムで見たビ ルマの悲惨な戦場映像とともに筆者の胸のなか で暗い思い出として残っていた。

映画では、イギリス軍に包囲された日本軍が、 窮地を脱するため「ビルマの竪琴」の調べにの って「埴生の宿」を合唱するのであるが、いつ しか包囲していたイギリス軍からもそれに唱和 した歌声が流れてくるシーンは映画を見ている 多くの観客に感動を与えたものである。

筆者は物語のなかで、ビルマ僧侶になった水 島上等兵が河原で日本兵の遺体を埋葬する場面 を忘れることができない。ひとり、黙々と遺体 を埋葬する水島上等兵を遠くから見ていたビル マの人達が、ひとり、またひとりと埋葬を手伝 い、いつしか多くの村人が手をかしていた。小 説ではこの場面の河は「シッタン河」となって いるが、インパール作戦で敗残兵が渡河したあ の「チンドウィン河」を思い出す。

釈迦涅槃像の近くで作業をしていた日本兵の 合唱にあわせ、かすかに「荒城の月」の竪琴の 調べが流れてくる。そして、いつしか、ビルマ 僧の風貌と「ビルマの竪琴」の調べは、奏でて いるのは失踪した「水島上等兵」との確信をもつ。

日本への帰還がせまった隊員たちは「きっと 水島が来るはずだ」とビルマ僧に呼びかけるよ うに鉄条網の前で、あるいは鉄条網に手をかけ て、大声で合唱する。

村人の後方にビルマ僧を見つけた日本兵達 が、喜びいさんで「埴生の宿」を合唱するのに あわせ、ビルマ僧は竪琴を激しくかきならす。 やがて緩やかな、寂しい「別れの曲」を竪琴で 奏で、無言のまま立ち去っていく。

水島上等兵は僧侶として、ビルマの地に残 り、戦死した多くの兵士を弔う道を選んだのである。

「ビルマの竪琴」は筆者をして「お釈迦さま の菩提樹を南部戦跡へ」との想いに駆り立てた 原点の作品なのである。ビルマで購入した「竪 琴」は我が家で大事に保管している(写真4)。

写真4

写真4.ビルマの竪琴

参考文献
1.NHK 取材班編:責任なき戦場 インパール、角川文庫、1995.
2.高木俊朗:インパール、文春文庫、1975.
3.高木俊朗:抗命、文芸春秋、1966.
4.高木俊朗:全滅、文芸春秋、1968.
5.竹山道雄:ビルマの竪琴、新潮文庫、1959.