沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 3月号

大規模災害にどう備えるか
〜東日本大規模災害からみえてきた事と今後の課題について〜

  • 日 時 平成23 年10 月31 日(月)19:00 〜
  • 場 所 沖縄県医師会館 会議室

出席者

司 会:玉井 修(沖縄県医師会理事、広報委員)

出席者

 ○玉城 信光(沖縄県医師会副会長)

 ○久木田一朗(NPO 法人沖縄救急災害医療機構・琉球大学医学部救急部教授)

 ○出口 宝(名桜大学大学院教授・健康管理センター長)

 ○仲座 栄三(琉球大学工学部環境防災工学教授)

 ○照屋 雅浩(沖縄県緊急消防援助隊長・沖縄県隊長那覇消防本部警防課長)

 ○ロバート・D ・エルドリッヂ(米国海兵隊太平洋基地政務外交部(G-7)次長)

平成23 年3 月11 日東北地方を襲った東日本大震災とその大津波によって、岩手、宮城、福島を中 心とした東北地方は大きな被害を受けました。この様な悲惨な状況において沖縄県の医療支援スタッ フ、消防の救命救難活動、また沖縄駐留の米軍の支援チームがどの様に活動していったのかを改めて 見直してみました。情報も限られた中でほとんど暗中模索で進められた様々な活動、実際には必死に もがきながら現場で活路を見いだしていくほか方法はなかったのです。事前に整えてあった連絡体制 や協力体制が機能した部分もあれば、全く役に立たなかった部分もあります。一体現場で何が起こっ ていたのか、そしてその場に勇気を持って踏み込んでいった人たちが何を考えたのかを紐解いていき ます。そこで見えてきたのは、統括して情報を収集し、的確な指示の出せる体制を如何に迅速に組織 できるかが大きな鍵である事が判ってきました。初動においてバラバラだった様々な現場部隊を、統 括して効率的に支援する統合対策本部の設置が混沌とした大規模災害の支援において最も重要なもの になるのです。いつ襲ってくるか判らない大規模災害において、医療、消防、在日米軍の全てが垣根 を越えて連携する形を模索したいものです。自然の猛威に対して人の力が無力であることは様々な今 回の自然災害がイヤと言うほど教えてくれました。この様な大規模災害に対抗できるのは様々な組織 の垣根を越えた人々の、より良い連携ではないでしょうか。

沖縄県医師会理事 玉井修

座談会
「大規模災害にどう備えるか
 〜東日本大規模災害からみえてきた事と今後の課題について〜」

○司会(玉井)

玉井

沖縄県医師会で理事をしております玉井と申します。

本日は司会進行を務めさせていただきます。 よろしくお願いいたします。

1.東日本大震災に対する支援を通して感じたこと 

○司会(玉井) 出口先生は第1 陣の医療支 援班として現地に派遣されたのですが、実際に 行かれて、または経験して、初動から医療支援 についてどのようなことを感じていらっしゃいますか。

○出口

出口

初動についてですが、 まず12 日に関係者に声 がかけられて集まって、 行かなければいけない ということになりまし たが、結局そのときは まだ具体的に日程は決 めずに解散しました。しかし、翌13 日に久木 田先生と我々は、やはり早く行くべきだと考え ていました。というのは、災害医療には、急性 期・慢性期とあるのですが、急性期のDMAT とか、それから救急救命隊とか、そういった救 急の専門チームは通常は大体3 日目ぐらいで一 応活動を終了するという基本的な決まりがある わけです。そして、その後に引き継ぐ第2 ステ ージとなる亜急性期、慢性期を担う医療支援チ ームを送る時期になってきているのに、どんどん時間だけが経っていました。そこで、すぐに 行こうということになり、大きな問題となった のは、ガソリンと車両の確保でした。被災地に 行くと言っても行く方法がなければどうしよう もないので、そこが一番現実的には大変でし た。あとは、何と言っても詳細な情報は何もな い。マスコミ情報しかないということでした。

○司会(玉井) 照屋さん、実際に消防隊と して現地にはかなり早い時期に入っていらっし ゃるんですけれども、これはどこかから指示があったのですか。

○照屋

照屋

我々の緊急消防援助 隊というのは、国が平 成7 年の阪神・淡路大 震災を教訓に、全国の 消防が被災地へ出動し 速やかに応援活動を実 施するために創設され た制度です。今回、沖縄から初の緊急消防援助 隊としての派遣でしたが、総務省消防庁のコン トロールで必要な情報を国からもらえました し、我々は各県に消防の仲間がいますので、そ の仲間のネットワークを通じていろいろな情報 もいただきました。併せて一緒に緊急消防援助 隊で派遣されている各県の仲間からもいろいろ な情報をもらっています。

今おっしゃった燃料の件や、道路の状況とい うのも、ある程度情報が入ったので、中断する ことなく被災地のほうに入れたのかなという感 じがします。

○司会(玉井) 沖縄の消防隊はかなり早く入れたほうですか。

○照屋 11日の地震後、我々が実際に出動 指令を受けたのが14 日で、現場に向けて出発 したのは17 日からでした。九州各県について は1 陣のみで止まっています。それ以外の各県 においては、東北地方を中心に5 陣、6 陣とい う形で出動していますけれども、九州はやっぱ り遠いということもありまして、1 陣のみの出 動でした。あとで聞いた話ですが、派遣に際し 県内の消防隊員のほとんどが「次は、自分を行 かせてください。」と名乗り出て懇願したよう です。また、派遣期間も短く、隊員は無念の涙 を流しながら被災地を後にしました。

○司会(玉井) エルドリッヂさん、実際に 今回は「トモダチ作戦」というミッションが起 きましたね。実際に指令が入ったとかがありましたか。

○エルドリッヂ

エルドリッヂ

まずこの機会を与え てくださったことに感 謝申し上げたいと思い ます。ありがとうござ いました。

「トモダチ作戦」に ついては、私はずっと 仙台におりましたので、仙台の活動について 『中央公論』の昨年の9 月号に詳しく紹介して おります。

特に冷戦後、災害救援活動をずっとやってき た海兵隊は、米国政府、特に米軍の中で一番災 害救援活動の中心的な部隊です。特に沖縄にあ る海兵隊が、災害の多い太平洋地域において一 番命令がくる組織です。これが過去5、6 年間 のどういうような活動をしてきているかという ものです。

幸いに昔から法律のほうが整備されています。 被災の国の駐屯にある、例えば東京にある米国 大使館あてに連絡、要請がきたら、それが最終 的に政府から各地域の軍に命令が来るんです。 我々も同じ日本に住み、配偶者も日本人であ り、もう県民、市民、国民でもあるので、かな り前向きに行動していただきたいと思って、具 体的に震災は2 時46 分に発生して、すぐネット でわかっていたので、3 時過ぎに危機管理室を 立ち上げて、ずっと座って24 時間体制だったん です。その日の正確な時間はわからないのです が、日本政府が正式な要請を行いました。

私は神戸震災も体験しています。神戸大学の 院生だったんですが、そのときご存じのように 国際支援を要請しなかった。今回、なぜ支援、 あるいは「トモダチ作戦」がうまくいったかと いう1 つの理由は、日本政府が早く決断したことだと思います。

我々が12 日、13 日にかけて、人、救援物資、そして飛行機を普天間からどんどんどんどん送っていきました。

先程軍事施設の話がありましたが、兵站、司 令部、航空隊、そして地上部隊の4 つがセットに なっていますが、まず司令部機能を残った在日米 軍の指令部に送って、そして、その後ほかの人と 航空隊の資産や財産を、どんどん持って行きま した。最終的に仙台に拠点を置くことになって、 私は政治顧問として現地に行ったんです。

支援についてですが、海兵隊と陸上自衛隊は 長年緊密な関係がありました。昔、沖縄に勤務 していた東北方面隊の君塚総監が、昔15 旅団 の団長、当時は第1 混成団だったのですが、私 はその人と8 年前から知り合いで、海兵隊の中 に陸上自衛隊の仲間達がたくさんいる。その仲 間と仙台に行く前から緊密に情報を共有した り、政府がいろいろ要請したり、法律が整備さ れたりしているんですけれども、軍同士で情報 共有していたんですね。非常に早くうまく展開 できたかなと思います。

○司会(玉井) 自衛隊の方たちとも、情報交換をするような素地はもともとあったんですか。

○エルドリッヂ いろいろな体制、枠組みが ありますが、例えば共同訓練という共通の認 識、あるいは正式な連絡体制もあり、あと非公 式なパイプもあり、3 つの体制を全面的に活か せたかなと思います。

○司会(玉井) 例えば米軍の皆さんが被災 地に入って、文化も違うようなところで支援活 動をされるということに対して、何か気をつけ たことはありますか。

○エルドリッヂ 実は私は6 年前に大災害に おける日米協力という政策提言を発表していま した。昔、阪大にいた時に、大学の紀要に載せ て、様々な場所で発表していました。確実に発 生する日本の大災害に備えて、米軍のリーダー たちが各地を訪問して、地理的な条件、あるい は地元の方々との人脈づくりなどについては、 若干進んでいったと思うのですが、今回はいわ ゆる共同作戦というより、我々にとって一番明確であったのが、我々は日本政府を支援する。 その支援の方法が自衛隊を通じて日本政府を支 援する。最終的に被災地、被災者の方々を支援 するんですけれども、ボスは日本政府でした。 したがって、勝手に行動しない状態だったんで す。可能な限りは自衛隊と一緒に行動します。 リードが自衛隊。接触するのは基本的に自衛隊 という形だったんですけれども、私が知ってい る限り、全く文化摩擦が生じない状態でした。 6 年前はそれを心配していたんですけれども、 今回はそれが全くなくて、非常に感謝された り、歓迎されていたことを強く感じていました。

これから緊密な連携をどうやって、軍だけで はなく、地方自治体の間で人脈、情報、能力に ついての認識、あるいは要請に関する認識をど うやって共有するかが大きな課題と思います。

文化摩擦というより組織の違いになって、日 本人の間でも同じ問題が発生しないように、例 えばお医者さんたちが思っていること、NGO が思っていること、軍が思っていること、政府 が思っていることは、やはり組織によって見方 が違います。だから文化で分けるのではなく、 組織で分けていると思いますが、なるべく共通 認識をどんどん広げることがこれからの大きな 課題だと思います。

○司会(玉井) 非常に気を遣って、デリケ ートな対応をしていただいたお陰で、現地の皆 さんに感謝という言葉で受け入れられたんじゃ ないかなと思います。僕らも実際に入って感謝 された毎日だったんです。

久木田先生、実際に現地に入られて救急医療 の専門として、今回の医療支援、または全体的 なことでも構わないんですけれども、何かお気 づきの点とかありますでしょうか。

○久木田

久木田

私も5 月の連休に県 医師会のJMAT として 岩手県の大槌に行きま したけれども、今回の 人的被害は阪神大震災 の災害の状態と全然違 うということを感じました。むしろDMAT が活動するような急性期 の3 日間に意外と外傷の数とか、重症度とかが 予想よりも少なく、その後の亜急性期から慢性 期の病院とか地域の医療が崩壊しているという 状況での支援というのが、今回非常に現地で有 効だったという印象をもちました。

○司会(玉井) ありがとうございます。

仲座教授、現地に入られて、実際に津波災害 の現場というものをつぶさにご覧になったと思 うんですけれども、見て感じたこととか何かありますか。

○仲座

仲座

私は技術を中心にし てやっているものです ので、津波がきたらど うなるかというのは、 ある程度想定はしてい たわけです。ですが、 現場に立ったとき、私 は事前にテレビで見ているから、これが津波の 仕業だということが理解できるけれども、私た ちが築いてきたものの全てがガラクタと化した ものを目の前にして、これが津波の引き起こし たものだとは一般には想定できないですよね。 あたかも広島の原爆や、あの後の姿にしか思え なかったですよね。それが第一印象でした。

○司会(玉井) 防災の専門家の目で見たと きに、こうすればよかった、ああすればよかっ たということも考えられますか。

○仲座 そういう状況を見て思ったことは、 ずっと昔から津波がきたら避難だとされてきた わけです。確かに避難して命は守れたかもしれ ないですが、避難した後、そこに何も残されな い、すべてが失われるというのは皆さんだれも 想像しなかったと思うんです。避難して命も守 れたけれども、財産も少なくとも守れている。 つまり、家が建っている。もちろん水に浸るか もしれないけれども、財産はそこにある。とい うイメージだったと思うんです。それが全てガ ラクタと化したということです。そのようなこ とは多分、この津波がくるまでは、だれも知ら なかった、想定しなかったと思います。

2.今回の支援において明らかになった課題

○司会(玉井) 今回、皆さんは様々な支援 を実際に現場でなさったと思いますが、その経 験を踏まえて見えてきた課題、問題点があれば 教えていただきたいんですけれども。エルドリ ッヂさん、いかがでしょうか。

○エルドリッヂ 宜しければ課題を議論する 前に、何がよかったのかをみないと、何でそれ が課題なのか、あるいはなぜこれを取り上げて ないのか。少し簡単に申し上げたいと思います。

1 つは、さっき申し上げた日本政府が非常に 早く要請すべき程の大災害であることを認識し て要請したことが、ものすごくよかったと思います。

2 つ目は、言うまでもないんですけれども、 日本国民、特に東北の方々の我慢強さ、あるい はそもそも地域性というか、自立性、独立性が あった勤勉さ。

3 つ目が先ほども申し上げたんですけれども、 使命や任務が非常に明確だった。最終的に東北 の方々を支援すること。立場上は日本政府を支 援する。その手法、方法は自衛隊を通じてやる。

4 つ目が成功したのは自衛隊隊員たちの真面 目さ、あるいは仕事に対する熱心さ。ご存じの ように日本の自衛隊は大体地元の方々を採用す ることが多いんですが、その地元の方々が、か なり隊員たちの中に親戚がおられる。そして、 その家族もたくさん亡くなったこと、にもかか わらず最後まで仕事に取り組んでいたこと。

そして、米軍のプロフェッショナル主義が非 常によかったと思います。米軍の中には制服の 人もいれば、文官の人もいる。実は文官の中に は沖縄出身の基地の従業員も何人かも一緒に、 山形空港に私のオフィスの宜野湾出身の人が一 緒に行ってくれた。そして、もう1 人は松島航空 自衛隊の基地に一緒に行った人たちもいました。

米軍は制服だけではなく、能力のある人たち をちゃんとうまく引っ張る。それで、統合的に 米軍が活動ができる。

もう1 つがさっき申し上げた海兵隊が豊富な 経験、知恵、知識がある。そして、もう1 つよ かったと思うのは、既に沖縄、日本に全部駐留しているから対応が早かった。グアム、ハワ イ、本国にいたら対応がそのときより時間がか かったと思われます。

あと、さっき触れましたが、60 年間の日米 同盟に基づいてさまざまな組織間、あるいは法 律の整備など、慣習ができあがっている。そし て、あと人間関係が非常によかった。最後に私 を含めて日本に住み、あるいは日本を好きなア メリカ人達もものすごく日本の復興を心から願 っていたと思います。

追加ですが、日本が先進国ですので、やっぱり克服が早いと思います。

では何が課題かといいますと、私から見れば 4 つの個人的な意見があります。1 つはさっきち ょっと触れていましたが、5 年前の2006 年3 月 から正式にスタートした統合運用体制により、 今回初めて統合任務部隊が編制されました。つ まり、そのときまで机の上のことしかできてい ない。特に陸上自衛隊と海上自衛隊との間の連 携が非常に薄いのは事実です。例えば、ボタン を押すと統合的に自衛隊が行動するとは限りま せん。統合的に行動しないことはやっぱり念頭 に置いていたほうがいいかなと思います。

今回は統合部隊と言われているのですが、どちらかと言えば共同部隊だったと思います。

2 つ目の問題が、これがどの危機でも言える と思いますが、被災地から正確に情報収集した り、そして米国側に集めた情報を正確にあるい は早く伝えることが十分ではなかった。もっと 早くあるいはもっと正確なものが欲しかったこ とが言えます。次の災害の後も同じことが言え ると思うんですがとにかくそれが常に大きな課 題だと思います。

3 つ目はこれも大きいと思うんですけれども、 60 年間日米同盟があり、そして長年、人間関係 が出来上がったけれども、結局のところは自衛 隊が米軍、特に海兵隊の努力が十分わかってな かった。海兵隊は陸上から対応できる、空から 対応できる、そして、海から対応できるがあま りよく利用されてなかった。私たちは勝手に行 動できません。さっきのご質問と関係するんで すけれども、日本政府を通じて要請を受けて初 めて対応できましたので、もう少し我々の能力 をわかっていただければよかったなと思います。

4 つ目の問題ですが、ある課題、ある問題、 ある状況、事情に対しての分析と処理、対処の 仕方が必ずしも同じではない。たくさんの例が 挙げられますが、1 つに絞ると仙台空港です。 我々は12 日の朝、もう仙台空港を使うという ことを決めていたんです。まだ水の下に入って いましたが、全く問題がないと我々はみていた んですが、現地に行ったら、自衛隊と話してい たのと全然想像できなかった。最終的に15 日 に仙台空港に行って、私は13 〜 15 日まで内閣 府の友人、ある副大臣ですけれども、彼に電話 で説明したら「よし、わかった」と言っていろ いろ斡旋してくれました。空港の関係者さえも 信じられなかったのですが、翌々日には空港を ひらくことができた。ですので自衛隊からすれ ば仙台空港も使えない。復興して空港が使える まで半年、1 年、9 カ月ぐらいかかるとのことで すが、米軍は何時間ぐらいの話でできた。認識 が全然違ったんです。だから最終的に会話がす ごく必要と思われます。みんな関係すると思う んですけれども、どう認識しているのか、その 対処策がどうであるのかを議論すべき必要があ るかなと思います。

○司会(玉井) 玉城先生、今のご発言の中 で、統治機関と言うんでしょうか、災害支援に 関してしっかりとした、制御された、統合され た動きが必要だということだったんですけれど も、沖縄県の今回の災害支援はどうだったんでしょうか。

○玉城

玉城

実は送り出す側も現地がどうなっているのかわからない、情報がないんですね。

連絡がとれないで行かせっきりという非常 に不安な状態だったのです。衛星電話と思いますが、電話がかかって きて、現地に自衛隊が入っていると聞いたので す。それで安心しました。

岩手医大でお話したときも、現地と後方の人 たちとの連絡網が全然なく大変苦労したと伺い ました。また岩手県庁でも誰が責任者かわから ないといわれた。ちょうどエルドリッヂさんが いわれたように、日本の組織というのは縦割り で、横につながらないのと、だれが責任者かと いうことがわからない。それが一番残念なとこ ろです。

先ほど仙台空港が使えるとおっしゃったのは、 仙台空港は日本の感覚からすると管制塔がなけ れば使えないということですが、米軍から言え ば、滑走路さえ生きていたら使えるんだという 発想なので、この差は大きいと思うんです。そ ういうときには事を動かしながら考えていくこ とが大切です。次にだれが責任を取るかといく ことが大切です。先日講演がありました。今回 の震災の際に消防庁長官がすぐに出動命令をだ したと話を聞きました。地震直後に現地から情 報がこないので事務方はまだ動いてはいけない と言っていたけど、長官はこれだけの災害でな にもないはずがない、すぐ動けということで関 東地方の消防が先に動いたという話を聞きまし た。おそらく消防と自衛隊が一番先に現地に入 ったのだろうと思います。消防庁長官は私が全 部責任を取るからとにかく動けと。事務官から 情報があがる前に動いたという話を聞いた時に、 このような状況ではそういう人が必要だと思い ました。米軍や自衛隊は自分たちの通信網をも っているけれど、民間は何もないんです。その 様なときにはどうするかと言うことです。

沖縄で災害が起こったときにどうするか。医 療に関してはまず沖縄県医師会が責任をとろう と思います。県立病院、大学もありますが、そ れらとまとめて話ができるのは沖縄県医師会だ と思っています。では災害発生時にどうする か、やはり通信網がないんです。それをどうし たらいいかということが悩みです。また災害時 には自動車は役に立たないので、連絡網をバイ ク便みたいなものでつなげることができるのか など課題がたくさんあります。災害時の責任者 が対策本部に来なければ何の話にもならない。 そのようなときには2 番手、3 番手のバックア ップ体制をどうしておくかということも考えな いといけないなと思っていろいろ考えています。

今回は自衛隊もその他いろいろな組織も大変 勉強したと思います。忘れないうちにこれらの ことを整理して次に生かせるようにしてほしいと思います。

医師会の事務局も相当勉強させてもらいまし た。医師会の結束力が強くなり、いろいろな考 え方、ものの進め方が変わってきました。10 月 から医師会の事務局体制も新しい方向に変わり 本当によかったと思います。

○司会(玉井) ありがとうございました。

出口先生、実際に現地で情報を得なければな らない。しかも通信手段もないという状況で先 生は現地に行ったわけなんですけれども、そこ で考えたことは何でしょうか。

○出口 ちょっとその前提なのですが、まず JMAT というのは日本医師会から要請がきてか ら、各都道府県医師会がJMAT を派遣すること になっていました。けれども、沖縄県医師会の 場合はその前14 日のお昼に独自の判断で派遣を 決めました。もう既に現場は発生していると。 そして、現場は中央の都合で待ってはいられな いと。もう切羽詰まった感じの状態でした。そ のときに詳しい情報はなかったのですが、実は 私は神戸のときの経験から、情報は現地の近く に行けば行くほど入ってくると思っていました。 今回も我々が行くと決めた時の行き先は、日本 医師会と調整して岩手県とだけ決まりました。 岩手県に行ったら、まずとにかく岩手県医師会 と岩手医大の対策本部に行くと。それだけで動 きました。そして、そこに行くといろいろ情報 があって、そこで初めて大槌というところが非 常に大変なことになっているので、行きますと いうことになりました。そして岩手医大の対策 本部からそれならばとにかく大槌に行って下さ いということでした。

そして、通常の幹線道路は通れませんよと教 えて頂き、それで大槌町のすぐ内陸側にある遠 野市というところの対策本部に行けば何らかの 詳しい情報があるだろうからということでまず そこに寄ったわけです。このように現場に順番に近づけば近づくほど、情報が入ってくるとい うようなことがあって、大槌に到達できたわけです。

あと、心配していなかったことが2 つありま した。1 つは戦争地域ではないわけで被災地で す。そこの避難者がおられる所へ行くというこ と、つまり避難をされているということは、む しろ安全なところということですよね。そこに 我々は行くのだという1 つの安心感がありまし た。もう1 つは、到達するためのルートに対す る心配ですが、実は少しはあったのですが、被 災地の災害対策本部には必ず自衛隊が入ってい るはずで、自衛隊が入っているということは陸 上自衛隊ですから陸路で絶対に行けるというこ とです。ですから、行く道が必ずどこかあるは ずだという、この2 つは迷わずして行ったとい うのが現状でした。

それで行ってから一番困ったのは、もうお話 にも出ましたように、通信手段がないというこ とで、自衛隊の電話を借りにいったりしたので すが、やっぱりいろいろなことに使われてい て、どうしても我々がこちらに連絡するのが遅 くなったということがありました。通信手段、 これは非常に大事だと思います。

○玉城 送り出した方は送り出された人が安 全に活動しているかを家族に報告しなければい けないと思っていました。しかしそれがなかな かうまくいかない。送り出すときに家族の連絡 先を把握して家族に責任をもって連絡するのが 医師会の役割です。しかしその第一報がなかな か入らなくて苦労しました。

○司会(玉井) 照屋さん、情報の問題はどうですか。

○照屋 緊急消防隊の場合は、各県に衛星電 話はもちろん配備されています。あと、無線も ありますので、私たちが行ったところは通信は 結構良好なこともありまして、あまり苦労はし なかったのですが、それはたまたまで、当然、 移動中など通信の不感地帯ではあらゆるネット ワークを駆使し情報を取るということはやっていました。

あと、被災地に入りまして、野田村というと ころは村がすべて押し流されているのですが、 役場機能が比較的機能しておりました。村長さ んは家も流されて家族も失っていたにもかかわ らず、非常に明るく陣頭指揮をとっていらっし ゃって、すごく士気が高かったですね。こちら のほうが勇気を頂きました。そういう意味で も、役場が機能していて、そこでの情報という のはかなり入ってきたということもあります。 改めて受援をする側の体制というのは、今後考 えなければいけない。特に沖縄県の場合は、応 援の手が来るのにかなり時間がかかりますの で、その間はどういうふうにつなぐのか。いっ たん応援が来た場合に、どういう仕分けをする のかということがすごく大切だと思いました。

○司会(玉井) 実際に大槌は役場が壊滅していましたね。出口先生、どんな感じだったのでしょうか。

○出口 ちょうど私が行きましたときは、実 は大槌町内には入れなかったのです。大槌町は まだ水浸しの状況で、道も一切通れない状況 で、城山体育館という山の手にある避難所のと ころに行くために、山の裏側のほうから入って いきました。最初に我々が見た状況というの は、津波が来て引いた後のそのままの状況を見 たわけですが、消防も、役場も全部流されて何 も無い状況でした。

17 日に道が通れるようになって、救急の往 診依頼があったときに、消防の方と一緒に車で 行くときに初めて町内を通りましたが、2 階建 ての消防の建物も役場も壊滅していました。大 槌では役場の方がたくさん亡くなられました。 役場の町長、それから部課長クラス、幹部の 方々も流されて全く機能してない状況だったと 思います。それで消防の方も6 人だけ生き残っ ておられて、その方たちが対策本部に詰めて、 救急に携わっておられましたけれども、そうい う状況でした。

○照屋 今の件も含めて、たまたま我々が入 った野田村というのは役場の機能がしっかりし ていたということで、そこは緊急消防援助隊も かなりの部隊が入っていました。被害に遭われ ている方は、陸前高田とか石巻とかそういったところに比べたら少ないのですが、緊急消防援 助隊は入れたということは、やはり災害対策本 部が立ち上がり受入体制としてうまく機能して いることを示します。緊急消防援助隊の応援も そういったところへは入りやすいということに あらためて感じました。

○司会(玉井) 大槌は何もなかったんですね。

○出口 実は、これは向こうに行きましてか ら避難所におられた保健師さんと話して判った ことですが、大槌というところは、あまりにも 全てが壊滅してしまったためにその状況を情報 として発信することが全くできていなかったと いうのと、初期にはマスコミも全然入ってくる ことができなかったということでした。初期に 情報が全く発信できなかったために、外部から の救急や支援が入ったのはだいぶ時間が経ってからのようでした。

それから、実はDMAT も調べてみると、大 槌高校までは入っていたのですが、城山体育館 とか、寺野体育館というところにはDMAT は 入っていませんでした。つまりDMAT も来て いなかったというようなところもあって、城山 体育館におけるトリアージは保健師さんと、そ の最初の1 日、2 日間は避難されていた植田先 生と道又先生がされていたという話でした。つ まり、いろいろな救助がすっと入れた地域と入 れなかった地域の差というのは、その現場から 状況の情報発信ができたかできなかったが影響 したと思うのです。ということは、これはおそ らく沖縄県でも同じことが起こり得る可能性が あるということです。

○司会(玉井) 久木田先生、この辺はいかがですか。

○久木田 今回、やはり阪神淡路大震災の教訓によってつくられたDMAT も、能力的な限界があるというのがわかりました。

1 つは情報を自分でとる方法、手段が限られ ていて、では自衛隊とか警察から情報が連携で 伝わるかというと、それもない。それと移動に 関しても自分たちで動きなさいという基本的な 自己完結に任されているものですから、やはり 能力的にも限界があって、急性期全体をカバー する能力としては、不足があったというのが課 題として出てきたと思います。

沖縄県でも全く一緒で、沖縄のDMAT は7隊あるんですけれども、自分たちに任されているというところで限界があります。

3.沖縄で予想される大規模災害はどの様なシミュレーションがなされているか(沖縄の特殊事情)

○司会(玉井) 仲座先生、今のいろいろな 課題が見えてきたんですけれども、沖縄県で、 もし同じような地震・津波、いろいろな災害が あると思うんですけれども、そういうことが起 きたときに、どんなことが起きるのか。この辺 について教えてください。

○仲座 沖縄県の課題というのを説明する前 に、ちょっと整理しておきたいんですけれど も、今回の地震ではっきりしたこと、あるいは 想像もしていなかったことがおきたというのが いくつかありました。医療の現場では、多分、 膨大な外傷患者がいるという仮定であったけれ ども予想に反してそうではなかった、それも1 つの津波災害というものが、地震災害と全く違 うということを知らされた問題でした。

それから、ライフラインが寸断されるというの は地震の災害の特徴なんだけれども、ガソリン がなくなるというのも阪神大震災とはちょっと 違う、新しい問題でしたよね。そういう次々と 新しいものが津波災害として出てきたんですね。

それから、結果的に亡くなられた方と生きた 方の大きな差として表れたことなんですけれど も、津波が発生し第一波が来て、津波が落ち着 くまでに6 時間ぐらいかかっているんですね。 七波ぐらい次々と、1 時間に1 回やって来てい る。だからどうにも救出ができない、6 時間と いうと午後9 時くらいまで、真っ暗になった状 態ぐらいでやっと津波が収束したんですね。生 きていたかもしれないけれども、あの寒さの中 で助けられない、午後9 時後にしか入れない状 態でしたから、そういうのがあったんですね。

そういう状況等を見てみると、240 年前の1771 年に沖縄で明和の大津波というのがあっ て、石垣島や宮古島で大きな津波災害が発生し ています。そのときの記録を見ていても、その ときは午前の7 時から8 時ぐらいに津波がきて いるんです。そのときにようやく泳ぎたどり着 いた人もいたけれども、また、津波が次々とく るのではないかということで子供も老人もみん な山上に避難をしたんですね。だから山上から 見ていたけれども、どうも手当てもできなくて、 助けることもできなくて亡くなられた人が多い というのが書いてあるんです。240 年前に起き た記録が残っていますが、そのような記録を私 たちは災害支援とかに生かそうということはな かったんですね。津波がどの程度まで来たかと いうことは議論してきたけれども、記録には行 政機関も麻痺したとちゃんと書いてあるんです。 次から次へと情報が入ってきても、まとめるこ ともできないということが書いてあるんです。 それから、船も1 隻も残らず流されて、沖に流 されている人たちを見たけれども、どうにもな らなかったということが書いてあるんですね。

そういう意味では、今、振り返って昔の記録 を見てみると、今回の津波の際に私たちができ なかったことが全部書いてある状況にあるので す。だから私たちが今やるべきことは、私たち が気づいたことをきちっと将来に残して、それ が大事だとつないでいく、そしてそれを100 年 あるいは200 年間もつないでいくことをやって いかなければならないと思います。

それから、私たちはテレビで津波のそのさま を十二分に見ましたよね。このようにして津波 というものを人類が目のあたりにするというこ とは、私たちの人類の歴史の中でも初めてのこ となんです。津波というものをこれだけ私たち が目にしたのは。これまで何度も津波の災害が 起きたけれども、120 年前くらいのときにも明 治三陸津波というすごい災害が起きています が、それから40 年後の昭和三陸津波、これは 夜中に起きたので写真のような記録もほとんど ないわけです。その時には、ほとんど津波とい うものの実態を人類が見ることが出来ていな い。起きた大きな結果だけは伝えられてきましたが、私たちは津波の恐ろしさ、実態というも のを全く知らないで100 年から200 年まできたということです。

私たちは今回の大津波を目のあたりにして、 津波というのは何であるかをすべての人が共有 できたと思うんです。ということは、人類の歴 史の中で初めての瞬間であるから、その経験を いかに伝えていくかが重要と思います。だから こういう座談会は、それぞれの立場でいろいろ な意見が出ますので、それをきちっとまとめて それを伝えていくことが非常に大事だという気がいたします。

○玉城 米軍はたくさんの災害の支援にでて いますね。今回の災害ではこのようになるだろ うとかいう予測がありますか。津波が中心だっ たら、亡くなっている人がほとんどである。地 震ではこうだというシミュレーションという か、災害支援のいくつかのパターンをもっていますか。

○エルドリッヂ 作戦部には所属していない ので、100 %自信を持っていませんが、長年の 経験と知識、知恵を集約してきているので、ハ ワイにある太平洋軍の管轄下にあるCOE がで きています。これは90 年代からできているの ですが、ディザスター・マネジメントというと ころです。そのディザスターは自然災害と人 間、人災と震災で、特に軍民協力関係をどうや って形成するのか、そして情報共有をどうやっ てするのか。そういうところに例えば防災の専 門家、元軍の人たち、現役軍の人たちとか、赤 十字とか、そういういろいろな方たちが入って いるのですが、まずそこに相当の研究があると 私は理解しています。何回か訪問しているんで すが、その角度からの質問はしたことがないの で、何とも言えません。

共同演習は2 国間演習、そして多国間演習が さまざまな想定するものがあり、それはパター ン化されていると思う。次の大きな災害を想定 する訓練が、今年の春4 月下旬にフィリピンで 予定している。その準備は見ていないのです が、関係者と話したら、これが東北のようなも の、つまり、巨大地震と津波その人になぜ聞いたかというと、今、静岡県と非常に緊密な関係 ができあがっている。当然、静岡が大きな被害 を受けると考えられる。その静岡のシナリオを 作戦部長に説明したら、彼はこれがフィリピン で来年の春に予定しているのと全く同じパター ンです。おそらくパターン化されていると思います。

○玉城 沖縄で災害がおこったときに、どの パターンで動くか。津波でけが人が多く発生す るパターンなのか、これからいろいろ考えてい くのでしょう。沖縄電力がやられ電気が消えた らどうしようもなくなるということです。発電 所は海のそばですから人は助かってもライフラ インがシャットダウンしたら大変なことがおこ るなと思いました。人災はなくても沖縄中の電 気が全部消えてしまうことがあり得ます。いろ いろなことが考えられます。

今回の津波被害だとDMAT の仕事はほとん どなかった。県医師会の役割としていくつかの シミュレーションをもってA パターン、B パタ ーンなど状況に合わせて医師会の仕事を考えて いかなければならない。

○司会(玉井) 沖縄県もまた、統合した組 織だったものにしないと十分活動できないよう な状況になるかもしれないので、沖縄県医師会 も組織立った活動ができるような事前の打ち合 わせをこれからやっていかないといけないなと 思っているんですが、エルドリッヂさん、例え ば沖縄県は離島がたくさんあるんです。こうい う島国で、今回のような大震災の津波が起きた 場合、多分、東北の今回の支援とは全く違った 形での支援が要求されてくる可能性があると思 います。そういう場合には、例えば米軍がお持 ちの様々な機械とか、機材とかというもの は機能しそうですか。

○エルドリッヂ 当然、離島のシナリ オもやっぱり入れないといけないなと思っ ております。先程も申し上げましたが、海 兵隊は海からの作戦を展開するものです けれども、自分たちの船は持っていない。 これは海軍の船で一緒にチームとして行動 している。これが今年は236 年創立記念の組織なんですけれども、お互いに相当の経験 がある。それが当然活用されると思います。

もう1 つが宮城県気仙沼市の大島というところ に、例えば沖縄で言えば津堅島とか、伊江島と か、そういった本島に近い離島がいくつかありま す。もともと橋でつなげようという動きが昔あっ たんですけれども、結局それがなくて孤立してい た島があった。自衛隊がなかなか救援ができない 位置にあって、海兵隊に要請があり、救援物資 を届けに行ったときは、民間の電力会社とか、電 話会社の車も載せて展開していた。今の時代は ある組織がすべて持つのではなく、ある組織が持 っているある能力と、別の組織が持っているもの を組み合わせると2 ではなく、3 になる。そうい うような計算ができると思うので、それがなるべ く事前にお互いの能力をわかって、その要請、ニ ーズがある程度事前に把握したい、あるいは危機 の中で情報収集してどうやって何を運ぶのか、届 くのかは考えなければならないと思う。

あともう1 つ、先ほどちょっと照屋さんが触れ ていましたが、今までは沖縄から東北への支援の 話が多かったのですが、今度は逆の場合、内地 から沖縄への支援がしばらくの間来ないという前 提で準備しなければならないんですけれども、ど こまで何が来ることが期待されているのか。自衛 隊は現在、約3,000 名しかいません。那覇空港の 近くにほとんどいるので、被害者も当然出る。期 待していた地元の応援はないかもしれない。ある 程度しかないかもしれない。米軍は離島のほうも 当然救援はできると思いますが、沖縄本島内の 支援もすることに多分なっていると思います。そ の場合は、韓国の船とか、台湾の船とかも、特 に沖縄の地理的なことを考えると、本土より台湾のほうが早いかもしれないので、そういう連携 もやっぱり必要かなと思っています。

○久木田 今のエルドリッヂさんのご発言の 中で、沖縄県の医療と米軍との共同ということ も前もって準備してないと、実際には働かない んじゃないかという懸念があります。去年と一 昨年、海軍病院でDMEP(Disaster Management Emergency Preparedness)コー スを受けさせていただいて、海兵隊の方々と一 緒に考えてみたときに、実際上、本当に一緒に できるのかということをなにもない時期に考え ていたほうがいいんじゃないかと考えています。 今回の災害の前からそう考えておりました。

○エルドリッヂ 人間関係が一番大切と思い ます。組織が非常に重要で、だけどその組織と 組織をつなげるのは人間、情報共有は人間関係 が非常に大切です。お互いの能力をわかること は、すごく大切だと思います。

○玉城 沖縄県の皆さんは屋根の上のタンク にペットボトルがいらないぐらいの水を持ってい ます。沖縄県民は台風に備えてみんな非常用の 食料も持っているのです。それで僕はいつも周 りの人に、大きな地震が起こって収まったら、 屋上に上がって水タンクのバルブを閉めてくれ と。そうするとおそらく1 週間分の水は十分なの で支援がこなくてもしばらくは大丈夫じゃない かと思っています。各家庭でそのような備えが あると北部のダムの数個分の水を確保できるし、 それを分ちあうことで助け合えるのではないかと 思います。あとは医療の支援をどうするかです。

○司会(玉井) 照屋さん、実際に大規模災害が起きたときに、消防は、今、十分対応できるような状況になっていますか。

○照屋 今の玉城先生がおっしゃったタンク の水と食料の件ですけれども、今は台風対策に しても県民の危機管理意識が非常に低くなって いて、食料を備蓄しているところもほとんどないようです。

あと、高架水槽についても、この間の震度5 ぐらいの地震がありました。あのときにもタン クの揺れで配管が外れ水が漏れ出したりという こともありましたのでタンクの水が備蓄と言えるのかは少々疑問があります。いずれにしても 危機管理意識がかなり低くなっているということは確かです。

この間、5 月の台風2 号の襲来の際は、那覇 消防では、わずか2 時間、3 時間のうちに500 件を超える119 番通報がありました。しかし、 消防で出動し対応できたのはせいぜい150、 160 件です。ということは、こういった広域的 な自然災害になると圧倒的に消防力は劣勢とな ります。私は消防というのは平常時の一般災害 には全力で立ち向かえるが、大規模で広域的な 自然災害にはかなり苦戦を強いられると今回非 常に痛感させられました。

そのためにも消防ができる減災対策、防災教 育にかなり力を入れていかないといけないなと いうふうに感じています。また、広域的な大規 模災害に備え訓練のシステムを見直し、市町村 間の連携を重視した訓練にしていかなければな らないと感じております。

○出口 今、消防のお話が出ましたが、実は 今回の津波ですごく火災が発生していました。 16 日に大槌町の手前で何十台もの消防車の列 を見ました。何かというと、大槌町は80 %で 火災が起きたそうです。それで我々も城山へ上 がるときは、まだ山火事があるという状況だっ たのです。ここ沖縄でも、そういう状況も想定 しなければいけないわけです。津波被害という のは、地震・津波のみでなくプラスで火災が起 こるということを考えなければいけない。そう なってくると、おそらく今の持てる県内の消防 能力では、あるいは当然、米軍とか自衛隊の力 も借りるのでしょうけれども、相当厳しいもの だという話になってしまうのでしょうか。

○玉城 裏返せば、燃えていいところは燃や して、大事なところを守るとか仕分けないとい けないだろうと思います。最終的にはみんなが 自分のことは自分で守るという防災意識をもた ないといけないでしょうから。

○出口 それと先ほど水の話がありましたよ ね。先日の日本病院協会学会の講演で出ていま したけれども、東京都、特に台東区は学校など のプールのそばに浄水機を設置していっているそうです。そのプールの水をいざというとき に、浄水機を使って命の水に換えるというよう なことを進めているということでした。これも 沖縄県も考えていく必要があると思いました。

○司会(玉井) エルドリッヂさん、教えていただきたいんですけれども、大地震・大津波が起きたときに基地は守られますか。

○エルドリッヂ この間の仲座先生の力を借 りて勉強会をさせていただいたんですが、県の ほうがそういう新しい状況の中でどう考えてい るのかをぜひ、我々も同じ県に住んでいるの で、住民としての認識と、あと協力する人とし ての立場の両方あるんですけれども、施設によ って違うんです。むしろ仲座先生のほうがどこ が一番安全なのか、危ないのかわかるんですけ れども、おそらく一番安全だろうというところ の1 つが、おそらく普天間だと思います。

昨年の5 月だったかNHK が那覇の防災準備に ついて特集をやっていて、そのとき食料がどうの こうのという話があったんですけれども、やっぱ り足りない。NHK の中で県内に1 つの空港しか ないとか、こればかり繰り返していたんですけれ ども、どうでしょう、3 つじゃないですか。

普天間が割合、多分大丈夫と思います。ご存 じのように沖縄戦のさなかでつくったところで すので、非常に高いところにあります。我々か ら見ればこれが平素もそうですけれども、普天 間が県の財産でもある。もし、震災が、特に津 波が発生した場合は、普天間はおそらく確実に いろいろな意味で使用されると思います。

あと、キャンプ・キンザーはどこまで津波が くるのかわからないんですけれども、一定のと ころまでだったら住宅街、そして公共施設、学 校、食堂とか、そういうところがやられる。し かし、上のほうに58 号線沿いにいろいろな倉 庫がある。その倉庫に東北に持って行った救援 物資がたくさんある。そこに入ったり、そこか ら普天間、あるいは那覇軍港から出していたの です。それから、キャンプ・フォスターのほう は58 号線沿いは完全にやられると思われる。

あと、現在の海軍病院、桑江というところも多 分全部やられる。だからこれから半年の間、震災がないように祈っています。来年の春から海軍病 院が移設完成する予定です。キャンプ・フォスタ ーの中の上のほうに移設しますので、割合大丈夫 なところだと思います。普天間のすぐ近くでつく る予定です。

あと、我々の司令部が北中城にありますので、大丈夫と思われます。

嘉手納のほうはちょっと低い為、どこまで滑走路が使えるのか、ちょっと微妙と思われます。

陸軍のトリイステーションは、彼らの想定が ちょっとわからない。司令部機能を持つキャン プ・コートニーのほうは多分大丈夫と思われ る。場所によるんですけれども。

キャンプ・シュワブのほうは1960 年5 月の チリの津波で辺野古などが若干被害を受けてい ますのでシュワブはかなり山のほうまでいくの ではないでしょうか。

あと、地上部隊がある第31 遠征部隊、そし てDMAT の軍の相手である人道支援部隊が金 武のほうにあるので、割合大丈夫と思います。

私たちが各地方自治体との間で、避難をどう 確保するのかがまさに今その議論をしていま す。こちらとしてはその議論は大歓迎です。問 題は地方自治体と県の間の調整がそう進んでい ない気がします。特に外で発生するものがどう やって避難のすみ分けをするのか。仮に施設の 中に入ることになったら、どういうタイミング で、お互いにどうやって通知するのか、その連 携、つまり訓練はまだ一切行っていません。そ こまで時間と余裕がないとできませんが、早く やらないといけないなと思っております。

○仲座 牧港からずっと嘉手納あたりに行く まで基地があるんですよね。58 号線から北に 向かうと右手側は避難場所に使える高さにある んです。でも、58 号線から左手の海側は非常 に低いところになっています。海岸沿いから58 号線まで逃げ込むと、もう大丈夫だと思うんで す。後は高台に、あるいは2 階や3 階の建物に のぼれば、多分大丈夫だと思います。

浦添市も含めて宜野湾、それから北谷町、嘉 手納などは早急に避難経路の確保という意味で 協議を進めることが肝心だと思われます。協議だけではなくて、実際の行動まで伴うようなこ とをやっていかなければいけないと思います。

○司会(玉井) 基地内に避難するということは、これは米軍基地としては可能でしょうか。

○エルドリッヂ 基地に避難するのはポイン トじゃないと思われます。例えば桑江、フォス ターの58 号線沿いとか、あるいは場合によっ て牧港、あるいは嘉手納、トリイ、場所によっ てはかえって危険です。基地が安全という発想 は今からなくしたほうがいいです。避難すべき ところと、そして避難してはいけないというと ころもあります。

例えば58 号線沿い、北前ゲートからうまく抜 けたら、北谷から北中城まで行ける経路がうま く整備されたらうまくいける、効率よく早くで きる。しかし、桑江のほうから北谷のほうから別 のゲートに入ったら、これは何も意味がない。な ぜなら58 号線と平行して走っている。むしろ入 るのではなくて、そのまま130 号線という道で すけれども、そのまま沖縄市のほうに走ったほう がいい。普天間のほうは入っても入らなくても いいと思う。つまり、大山まで行ったら58 号線 はそれでいいと思う。危険なところが北谷だと 思う。北谷の桑江のほう。それをどうするのか が大きな課題になると思う。それが基地を通じ て避難をするのではなく、例えば北谷町がちゃ んと道を整備することが必要かなと思います。

○玉城 以前に自衛隊の基地の中に入ったの ですが、案内がないとどこへ行っていいかわか らない。普通の道路と全然違うのです。おそら く米軍基地に入っても、先ほど言われたように 58 号線と平行に走るだけで内に入る道を見つ けることはできないだろうと思います。

だから日頃から非常時には一番高いところに逃げるような簡単なことを訓練していたほうがいいと思います。

沖縄は高いビルがあります。今回の地震や津波でもコンクリート建てビルはあまりやられていません。その辺りはどうでしょうか。

○仲座 沖縄に大津波がきたときにどうなる かということを想像していかなければならない んですけれども、エルドリッヂさんが説明した とおり、普天間は大丈夫ですよね。あそこは高 台で50m ぐらいありますので、そこは大丈夫 で、嘉手納基地もおそらく大丈夫だろうと私は 想定しております。滑走路の一部が20m ぐらい にかかっておりますけれども、道路から見ると 低いように見えるけれども、高くなっています ね。25m ぐらいあります。

大きな津波は東海岸の海溝側からくると想定 されています。でも、沖縄本島は島が小さいの で津波は回り込むわけです。回り込むと約半分 ぐらいになるという想定もできますので、20m ぐらいの大津波が10m ぐらいにはなるだろうと いうふうに想定されます。10m の津波だと那覇 空港はだめですね。

それから県内の電力会社は全滅です。すべて 電気は止まると思います。壊滅的な状況になる でしょう。沖縄電力のある牧港などは海抜5m、 標高5m ぐらいのところにありますので、非常 に問題ですよね。

それから、空港としては、沖縄本島の場合、 現状では普天間と嘉手納が十分機能するであろ うと考えられます。宮古の下地空港は多分ちょ っとした津波でも壊滅するであろうというふう に考えられます。石垣島もやっぱり今の新しい 空港ができても、被害が想定されるんですね。 つまり、外から援助を持ってこようにもなかな か民間だけでは、無理だろうというのは、今の 現状下では想定できます。

それから、東北地方の津波の問題点をみる と、津波発生後、避難した人たちをどう生きな がらえさせるかが非常に大事であったわけで す。東北地方は当時3 月ですので、海水も気温 もすごく低かったので、おそらく孤立した人は 何分かで亡くなっていると思うんです。でも、 沖縄の場合には冬であってもある程度、低体温 症にもならないと思いますので、もしかすると 沖縄の場合には外傷患者というのが増えてくる かもしれません。

それから、もう1 つは二次災害です。津波だ けで済めばいいんだけれども、もっと最悪のシ ナリオを考えると、津波が発生しているとき に、台風が来るということも十分考えられます。最近の台風などは1 週間くらいの間隔で来 襲するというのもありましたよね。ようやく台 風が過ぎ去って物資を届けようとするけれど も、次の台風が来て飛行機も飛ばないというの も、これは最悪のシナリオだけれども、想定で きるわけですよね。

結局、今度の問題は避難所にいる人たちを生 きながらえさせることが大変だったわけです。外 から物資も来ない、電気も全滅するという、本 当に想定としては沖縄の場合最悪のシナリオが できる。だから沖縄の場合には医療というのは 非常に大きなウェイトをもってくると思います。 医療と公衆衛生とかそういうのは、やっぱり沖 縄ならではのことを考えておかないといけない。 エルドリッヂさんが言っている別の形の支援と いうものを模索しておくことも現状ではとても必 要ではないかと、私は思うんですけれども。

○出口 今までのお話は中南部中心ですが、 北部は違ったシナリオをつくらないといけない 可能性があると思うのです。ですから沖縄の中 でもいろいろなことを想定したシナリオプラン ニングを持たないといけない、地域による多様 性が大きいと思うのです。本部、名護、恩納村 も中南部と全く違った環境がある、例えば飛行 場はないですよね。

○仲座 道路網もほとんどですね。

○出口 沿岸しかないですよね。

○仲座 それが寸断された場合も、想定しないといけないです。

○出口 そうなると、北部ですと県立北部病 院が災害拠点病院ですか。そこに集中してしま います。そういう地理的特性というのはかなりあ るのではないでしょうか。それから、財政的な面 もあるでしょうが、各災害拠点病院が自家 発電機も、2 日も3 日ももつような規模のも のは持ってないですよね。その規模の水タ ンクも持ってないですよね。やはり沖縄県 内でも各災害拠点病院というところは、し ばらくは自立できるだけのものは持ってお かないといけないと思います。

これは今回の教訓で言われていましたが、 患者さんの分の食事は備蓄してあって足り るはずだったのに、そこに職員が入ってくると一 気になくなったという状況があった、これが病院 の備蓄の現状であったという話がありました。 できるところから、まず医療としては災害拠点 病院がしっかりと活躍・活動できる体制をつく っていくということも課題になると思います。

○エルドリッヂ ぜひ一度皆さんに米軍のほ うを訪問していただきたいなと思っています。 我々は沿岸からの活動もできるし、空からも活動できます。

本部を含めて北部の方々には申しわけないと 思うのですが中南部のシナリオのほうがずっと 有難いなと思って、人口が少ない、集落が結構 わかりやすいところにある。逃げれば結構助か るかなと思います。空から、海から支援がしや すくなるかなと思います。

関西にずっといまして、結構、阪神の震災か ら自衛隊の役割について見直してきた震災にお いて、特に私の勉強にとって欠かせなかったの が、自衛隊と大阪大学が一緒に防災の研究をず っとやってきました。特に大阪が震災の中心に なった場合、どのように、だれと連携すればい いのか、ずっと研究していました。ですので、 その授業に講演しに来た人たちも一緒に仙台で 仕事していました。

県内の軍、自衛隊、米軍に対するアレルギー はちょっとなくしたい。名桜大学と、もし、今 行っていなければぜひこれから本部を想定した 震災、自衛隊とどう連携、大学として、あるい は人材育成の過程で学生たちが将来、沖縄のリ ーダーになる。彼らが震災を考えましょう、そ のようなセミナーを、やってなければぜひ自衛 隊、米軍も含めて巻き込んで開催していただければいいなと思います。

4.大規模災害に対してどの様に備えるべきか。(より良い相互連携を目指して)

○司会(玉井) 人と人とのつながりという か、そういうものが大規模災害のときには大事 だと思いますが、このあたり今回いろいろな方 とのつながりができたと思います。

○玉城 私も医師会の支援の最後近くに大槌 町に行ったのですが、その頃には町の様子も変 わってきました。最初の頃に行った人たちの思 い入れ、地域の保健師さんと一緒に仕事をして いた人たちのつながりというのは大変強いものがあります。

いくつか本を読みましたが、自衛隊は海から 陸地に行くことはできないが、米軍はどのよう な瓦礫があっても上陸できると言うことでした。 それを活用すれば沿岸部の人たちをもっと助け ることができたのではないかと言われています。

基地問題というのは沖縄では問題になります が、災害の場合はこれとは別にしっかり考える べきものだと思う。先ほど仲座先生から最悪の シナリオを言われたときに、そこまでは私も考 えなかったのでどうすればいいんだろうと考え 方をワンランクアップしなければいけないと思います。

今回の震災で一番だめなのは地域からの要請 がなかったので日本政府も沖縄県も動かないと いうことです。沖縄県も被災者を沖縄に引き受 けるというがどのように被災地に情報を届ける のかわからない。インターネットを見てほしい といっても電気の消えたところでインターネッ トを確認できない。現地に飛んでいって、沖縄 県は被災者を1,000 名引き受けます。どんどん 来てくださいという大事なことができなかった のです。これからシミュレーションをして勉強 していかなくてはいけません。

先日、南部医療センターで震災が起こったと きのトリアージ訓練をしたという話がありました が他の医療機関はまだそこまではいっていませ ん。那覇空港災害時のトレーニングを毎年演習 しているのですが、数年前の中華航空が燃えたときには何の役にも立ちませんでした。空港に第一 声を発する責任者がいなかったのです。ひどい話 です。訓練と現実にギャップがあるのです。

○出口 エルドリッヂさんのお話を聞いて、 非常にその素晴らしい話とか有難い話だとは思 うのですが、1 つだけ、だれが声をかけたら動 くのかというのは明確ではないんですよ。

例えば北部で、本部町の町長が海兵隊に直接 助けてくれということを言ったら、すぐ動ける かというと、多分そういうことは今の行政では 無理ですよね。日頃、協定をつくっておけば市 町村単位でもできるのでしょうか。

○エルドリッヂ おそらく沖縄県になると、 知事の要請になります。自衛隊については一定 以上の被害が確認されると独自で活動ができま す。又、日本政府がアメリカに要請しますが、手続きに若干の時間を要します。

私は6 年前に日米相互支援協定を締結すべき ということを提案していたんです。各地方で防 災訓練を行う。沖縄県では米軍は誘われていな いんですが、それはいずれ本格的に、私の定年 退職までなればいいなと思っているんです。そ の間、どう行動するのか、だれが電話すればい いのか、多分見えてくると思いますが、でも、 米軍ではなくて自衛隊と一緒にする。自衛隊を 通じて日本政府を通じてやることになるので、 仲井眞知事がこれからどうつくるのか正直わか りません。いろいろな方法は考えられると思い ますが、主権国家日本はなるべく外務省、防衛 省、在日米軍を通じてやらないとおかしくなる ので、それは最後まで法律を大事にすべきと思 います。しかし、時間がかからない形で、すぐ 対応できる仕組みを早めにつくったほうがいい と思います。

できたら県が何らかの形で主要な関係者を、 例えば民間からの合宿を開催して、例えば基本 認識、例えば仲座先生による発表とか、あるい は東北の震災の教訓とか、要するに学会のよう な形でさまざまな形でいろいろな角度から発表 して、夜は懇親会、いろいろな人脈をつくっ て、最後に例えば各組織からの代表が構成する 政策・提言をまとめる、グループができて、そこから数人近い、あるいは数週間以内に提言を まとめる。例えば3 カ月後、半年後、その提言 が各組織がどこまでそれが実施されているの か、自分が与えられた宿題はちゃんと応えてい るのかどうかを、そういうような、県がリード をとるべきだなと思っております。

○司会(玉井) とにかくお互いを相互に理 解し合う、お互いにもっと話し合う、そして、 よりよい関係を構築していくというふうなことが大事だと思います。

○出口 確かに自衛隊とか軍とかになってく ると、行政的な官の話になってきますよね。今 回よく見えたことは、県医師会って民間でした よね。民間だからこそ早くできたということ、 うまくいったことがあると思うのです。今後も やはり民間である医師会としての強みを生かし て、沖縄県における災害に対する考えをつくっ ていくということ。特に民間であるという強み を生かすべきだなと思いました。

○司会(玉井) 動きが早いというところは確かに大切ですね。

○出口 そういった中で、また、官とのいろ いろな協力関係もあると思います。徳島では、 今回は県と一緒に医師会も動いて活動したそう です。やっぱり少し動きは遅くなっているので すが、そのかわり自衛隊に全部運んでもらった りとかしたそうです。玉城先生からは、やはり 民間である県医師会のよさを生かした提言をぜ ひお願いします。

○玉城 提言というのは難しいのですけれ ど、きょうはエルドリッヂさんからいろいろな 話を聞かせてもらいました。また震災の本を読 むたびに自衛隊などの必要性を勉強させて頂き ました。今回は阪神大震災のときと違っ て、公的な組織、自衛隊にしても消防に してもすぐ動いたというのは大変よかっ た。ただ、現地からの情報がないものだか ら、次にどう動いていいかというのがわか らなかった。今回のこの会議も、これが沖 縄で起こったらどうしようかということに つながったと思います。

県といろいろな公的組織の動きのなか に沖縄県医師会も入りながら、独自にはどうし て行くかと言うことも考えていかないといけま せん。先ほどいわれた勉強会も沖縄に災害が起 こったときにどうするか検討する必要がありま す。私は参与として県にいますので災害対策の トップである知事公室長にも機会があれば話し ておきたいと思います。

この座談会で私の想定を超えるような大災害 がおこる可能性もあることがわかったので、も う一度考えを新たにしました。

先ほど照屋さんから沖縄の人の台風に備える という防災意識も低下しているということを聞 いてショックでした。各家庭が自分の家庭の防 災意識や台風対策をしっかりしなければいけな いと思います。先日の48 時間台風のときに、 コンビニの食料が空になったのにはびっくりし ました。やはり皆が認識して日頃の備えをしな がら大規模災害の時に力を出し合って協力し て、何ができるのかというシミュレーションを していかなければ行けないと感じました。

今日は皆さんに来て頂いて、非常に有意義な 話ができ、私が考えていることをさらに一回 り、二回りも大きくして頂いたと思います。そ れに向けて医師会の仕事や、行政と一緒にやっ ていくことを相談しながら、いつ、何が起きて も大丈夫のようなシステムづくりを積極的に進 めていきたいと思いますので、今後ともご協力 よろしくお願いします。きょうは本当にありが とうございました。

○司会(玉井) それでは、これで座談会を閉会させていただきます。皆さん、どうもありがとうございました。