おもろまちメディカルセンター
泌尿器科 城間 和郎
今年は辰年です。私も今年で5 回目の年男と なりました。そこで今回は過去の年男を順番に 振り返ってみたいと思います。
≪ 1 回目の年男(0 歳 昭和39 年、1964 年)≫
私は昭和39 年8 月8 日に那覇市壺屋の赤嶺 産婦人科医院で生まれました。この年は東京オ リンピックの年で、東海道新幹線開通や東京モ ノレールの開通など歴史的イベントの多い年でもありました。当時は与那原町で父が城間医院 を開業しており、自宅兼用の医院でしたが私自 身は当時の記憶が全くありません。昭和42 年 1 月に泉崎病院を開設し、那覇市泊(崇元寺) に移転した頃からだんだんと記憶がはっきりし てきます。
≪ 2 回目の年男(12 歳 昭和51 年、1976 年)≫
私は父の勧めで7 歳からヨットを始め、琉大 ヨット部のOB から指導を受けていました。こ の年、国体参加資格であるバッジテストの審査 が沖縄で行われることになりました。満15 歳 以上の受験資格のため私は受ける事は出来ない はずでしたが、日本ヨット協会(現:日本セー リング連盟)の特別の計らいで離島での特例と して受験が認められました。結果は見事合格 し、日本最年少のバッジテスト保持者となりま した。そしてその年には、国際オプティミスト 級の全日本大会(広島県宮島)に沖縄県代表と して参加する事も出来ましたが、瀬戸内海のべ た凪に泣かされ結果は振るいませんでした。
≪ 3 回目の年男(24 歳 昭和63 年、1988 年)≫
大学在学中はヨット部に在籍し、さらにはキ ャンプやスカベンジャーラリー等を企画するサ ークルを主宰し、勉学が疎かになり一番親不幸 をしていた時期です。結果的には留年してしま い、温厚な父もさすがに激怒しヨット部は強制 的に退部する羽目になってしまいました。しか し、その後もサークル活動はこっそりと続け、 この時に得たアイデアや企画力が現在の仕事の 中でも役に立っていると思っています。
≪ 4 回目の年男(36 歳 平成12 年、2000 年)≫
この年は私にとって大きな転換期となりまし た。かねてから父に沖縄に戻って来るように言 われていたのですが、金沢での生活にも慣れ、 泌尿器科診療に生きがいを感じ始めていた時期 でしたので、なかなか決断が出来ずにいまし た。そんな時父が、『泉崎病院で泌尿器科を開 設してくれないか』と言ってきました。父はも ともと泌尿器科に対しての必要性を理解してく れていましたので、この言葉で沖縄に戻る決心 をしました。ただ、泉崎病院では透析診療も診 て欲しいとの要望があり、1 年間は琉大病院血 液浄化部で透析の勉強をさせていただき、平成 13 年5 月に泉崎病院で泌尿器科を開設する事 が出来ました。
≪ 5 回目の年男(48 歳 平成24 年、2012 年)≫
40 歳を過ぎると仕事が波に乗り、日常診療以 外に病院新築移転プロジェクト等で超多忙な毎 日を送っていました。自分自身は苦痛を感じて いなかったのですが、肉体的・精神的には悲鳴 を上げていたようで、42 歳の時に慢性骨髄性白 血病が発症しました。幸い内服薬(グリベック) が奏功し、現在まで寛解状態を維持していま す。今年48 歳になりますが、昨年から始めたフ ェイスブックで新旧の友人と繋がりを持つ事が でき、また全国泌尿器科医との情報交換や院内 職員同士のコミュニケーション不足の解消に積 極的に役立て、日々の書き込みを日課としてい ます。今年はフェイスブックを用いた病診連携 の活用をさらに充実させて行きたいと考えてお りますので、沖縄県医師会の先生方も是非フェ イスブックに登録して頂き、友達リクエストを 送って頂きたいと思います。( http://www.facebook.com/kazuo.shiroma )宜しくお願い いたします。