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お墓(蔵)三題

伊地柴敏

南山病院医員 伊地 柴敏

七十才を期にこれまで三十八年余の診療所 の経営を閉じて勤務医に転向することになりま した。

急性疾病のみにこだわり慢性疾病、介護医療 をおろそかにしたむく いが閉業の原因であります。自分自身の怠慢な性格が日進月歩の医学の 時代の波にすっかり乗り遅れることになり営業 不振が致命傷となりました。

七十路という時期は人生の総仕上げをする第 四コーナーとなって矢鱈と自分の遺り残した物 事が多いことに気付きます。その残務整理なる ものが次々と出て来るものです。

これまでの生き方を振り返れば仕事のこと、 子育て、孫育てと日頃は追いまくられ、先の事 を考える余裕はありませんでした。七十になっ て始めて心の隅にのしかかるものに気付きまし た。吾が家の墓のことでした。

父母が戦後いち早く親族で共同墓地を購入し て当時無けなしの大金をはた いて苦心惨胆造り上 げた代物で、前面は堂々として威厳もありまし た。しかし側面、袖といわれる部分はすっかり 地盤沈下がひど く雑草、雑木、ススキが根を張り くずれ落ちんばかり、清明際、お盆の時は草 刈、雑木の根の掘り出しがいつも苦痛で難儀な ことです。その都度簡単な補修だけでもと思う のですがいつも済んでしまえばそのまま放置と いう連続でした。

その頃墓地内の一族の墓も同様に老朽化して 破損がひどくなり、傾斜しているのも有って改 修の時期にあったのです。そこで親族八ヶ所の 墓主が相談し同時に改築したいとの意向感触を 得ましたので私はこの工事のまとめ役を引き受 ける羽目になりました。この機会を逃すと一人 一人でこの工事をするのも至極大変な難事にな ることを考えると難儀は承知の上でこの人達と 行動を共にしてそのリーダー役、まとめ役目を 果たしました。そして吾が家の墓は和琉混合折 衷の総み影石で長年の夢であった墳墓を完成さ せました。これで第一題関門を突破したことに なります。

次は成功に勢いを得たという事でしょうか。 その頃は私の生涯奉仕事業の主柱であります大 学の献体組織で計画を進めていた組織入会員勧 誘促進運動の為の「献体成願者の刻銘碑」の建 立に全力を傾注することが出来ました。この仕 事はなかなかややこしく賛同意見の多い中での 反対意見も多く多様多岐に亘り役員の中でも反 対者を出す仕末。何事をするにしても必ず反対 者が出現します。この人達をまとめるのに四苦 八苦異論反論の噴出、その反論の理由は募金運 動をさせられる事が嫌いで、いやで恐ろしいと 言うだけのことでありました。困りました。そ こで私は全ての責任を負うということで募金の 目標を医師会、歯科医師会と全医療関係機関に しぼって行うという事でこの異論者を説得して 納得させました。

沖縄県医師会及び歯科医師会、その他全医療 機関の皆様方には本当にお世話になりました。 そのご協力ご支援は誠に有難く感謝に絶えませ ん。厚くお礼を申し上げます。

この様な経過を経てやっとの思いで異論反論 を取りまとめて発案以来三年の日時を要して碑 の建立をすることが出来ました。出来上ってし まえば今の今まで反対していた人達も掌を返す 如く笑顔になって「造って良かったですね」と 言う。

募金運動と言うものは嫌がられるもので、つ らく厳しく怖いもので最も謙虚でなければなら ないものだと思います。二度とこの様な事には 関わり度くないと思ったものです。

現在七〇〇余名の献体成願者が医学部構内の 御苑に建つみ影石板に刻銘され永遠の安息の眠 りについています。(県平和祈念公園の刻銘碑 を模して建立しました。)これで第2 題の関門を通ったことになります。

しかしこれで終りではありませんでした。そ れから三年もしないのに又々頭の中に鎌首をも たげて来るものに気付きます。そして又その中 に深入りする羽目になりました。それは一族の 氏墓(門中墓又は宗墓の事)の事が気になって 仕方ありません、それは中城村の護佐丸城の南 麓山頂近くにあります。取り付け道路は何もな い山の中にあります。ハブもいっぱい生息して いるジャングルの中です。建築(一八五九年、 安政六年、墓標確認)よりすでに150 年の歳月 を経ています。

今次大戦にても砲撃からも幸いにも免かれて 無傷であったが、墓苑はすっかり荒れ果て雑木 雑草が生い茂り、石垣は崩れ落ち沖縄版アンコ ールワットと言った感じで鎮座していました。 この古墓を何とか改修すべく、これは私生涯の 最大の責務と考えました。それは私が宗家祭礼 代行の一人であるとされたからです。大変な役 目を背負わされました。これが又大変なことに なりました。全一族に呼び掛けるのですが、そ の名前も住所も解からずこれを伝達する事が大 変な苦労でありました。募金のむつかしさは前 題にも書きました如く骨の髄まで沁みこんでい るはずなのに又々同じ事を始めてしまいまし た。全工費の三分の二は私と実弟と従弟の三名 で負担する事になりました。残りの三分の一を やっとの思いで募金で充填することになりまし た。誠にきびしく、すさまじい現実を知りまし た。拝所拝殿はすべて鋼鉄で作り放火、失火に そなえました。又鳥居も取り付け二基の龍柱を 最前面に押し出してお宮、神社風に造り替えて 一族の心のシンボルとしたのです。一大出費で はありましたがやっとの想いでこれを完成させ ることが出来ました。一族親族の協力に大感謝 することは勿論であります。私は精神面で充実 感、達成感を得て生涯を終えられればと思いま すと今幸せな気分になっています。他人の業績 を羨んだり気にすることもなくなりました。

七十才代の私は墓造りで終始した様です、体 調も余り芳しくないのですが何か安定満足感で 毎日働いています。死後に極楽浄土があるとす ればそこに一時なりとも入居させてもらえば有 難いことと願っています。千の風にのって広い 大空を飛び廻るのも良いかも知れませんが私は 吾が家の仏壇にこそ魂は居り度いし、庭は別 荘、墓は故人(私)のお荷物(お骨)を納める お蔵と認識しています。

昔からこの世の中で蔵というのは丈夫で耐火 耐震性に優れて造られて大事なものを納め保管 する所と決っています。この世で蔵を建てると いう事は人生での立身出世成功栄達の代名詞の ようなものだそうです。私もこの世の中での蔵 を建てたかったのですが残念、あの世での蔵ば かり造って来ました。

私の話はこれで終わりです。読んでいただき 有難うございました。