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平成23年度第1回マスコミとの懇談会
「東日本大震災沖縄県医師会医療支援」について

玉井修

理事 玉井 修

5 月20 日那覇市医師会館において第1 回マス コミとの懇談会が開催されました。今回は去っ た3 月11 日に発生した東日本大震災に対して沖 縄県医師会が3 月15 日から派遣した医療支援 の報告を行いました。今回、第1 陣として雪の 中を四輪駆動車に乗って現地に入った名桜大学 健康管理センターセンター長の出口宝教授によ る詳細な報告により、この災害医療派遣がいか に困難の連続であったかがよく理解できました。 災害派遣は日常の出来事ではなく、危険回避の ために万全を尽くしつつも、危険と隣り合わせ の非常に過酷な任務でありました。また、同時 期に現地に入った琉球大学医学部附属病院救急 部看護師長の知名智子さんの報告は看護師の目 を通し、避難所の衛生環境が非常に過酷な状況 であったこと。また、その中で人々が助け合い、 いたわり合って生活する様子が報告され、とて も感動しました。テレビなどで報道される炊き 出しや、温かいご飯、ゆっくり暖まるお風呂の ありがたさが実感として伝わって来ます。大き な自然災害において人の力はあまりに無力に感 じられてしまうこの大震災ですが、人がその優 しさを持ち寄れば、どれほどの破壊からも必ず また立ち上がれるのだと確信致しました。

また、今回の医療支援においては沖縄県医師 会から全会員に向けて、医療支援の支援金を募 集致しました。これに対して多くの会員が迅速 に協力して頂いたからこそ今回の医療支援活動 が円滑に行えました。また多くの会員施設から の援助、多くのメーカーや問屋さんからも援助 がありました。この災害医療支援は沖縄県の医 療界総力の結晶であり、沖縄県において多くの 皆様がこの災害支援を力強く支えて頂きまし た。今後、今回の医療支援をしっかり総括し、 沖縄県における大規模災害時に対する備えとし て充分な検討を行う必要があると思いました。 マスコミ側からも今回の災害派遣に対し、沖縄 県における対応策はどうなっているのか、今後 の課題としてどの様な事が浮かび上がってきた のか等の質問が多かった様に思います。今後、 少し時間はかかるかと思いますが充分な検討、 総括を行い、県行政とも太いパイプを繋いで連 携をしていく必要があると思います。

懇談内容

懇談事項

東日本大震災沖縄県医師会医療支援について
名桜大学健康管理センターセンター長
出口 宝
出口宝

沖縄県医師会災害救 助医療班派遣の第1 陣 として岩手県大槌町に 行かせていただいた出 口です。はじめに災害 医療について説明し、 次に沖縄県医師会の対 応、そして医療班の派遣の開始、派遣後の経過 について報告したいと思います。

1.災害医療について(スライド1、2)

災害医療は発生してから経時的に分類されて います。いくつかの分類があるようですが、一 般的に超急性期から急性期、亜急性期から慢性 期、慢性期から復興期の3 つのステージに分け るとスライドのようになると思われます。ステ ージ1 では「防ぎえた災害死」の救命で発生か ら3 日目まで、ステージ2 では「災害を免れた命」の医療支援となります。発生から4 日目か らはじまり災害関連疾患、慢性疾患治療、衛生 管理、健康管理など二次災害予防を行うことと なります。そして復興期となり、医療支援から 医療復興支援へと移行していきます。

スライド1

では、このような災害医療にどのような医療 チームが活動しているかですが、第1 ステージ ではDMAT や日赤など、第2 ステージでは JMAT や日赤、そして各医療機関やNPO など になります。このスライド以外のチームもある と思います。派遣形態ですが、DMAT や日赤 は行政や中央組織の要請で出動する事となりま す。これらは基本的に業務派遣と思われます。 一方、JMAT は日本医師会の要請という形では ありますが、任意の判断で出動でき、NPO な どと同じくボランティアでの活動となります。

次に、第2 ステージ災害医療の形態について ですが、病院支援、拠点診療、巡回診療があり ます。それぞれスライドのようになります。

スライド2

2.沖縄県医師会の対応(スライド3)

東北地方太平洋岸で大津波による広域災害が 発生しました。まず、津波であるため地震に比べて負傷者は少ない、多くの地域が壊滅し孤 立、そこに多くの避難者の方々がおられると考 えました。

スライド3

3.医療班の派遣の開始(スライド4)

そこで、すでに被災地ではステージ2 の医療 支援が必要とされていると考え、どこからの要 請や指示も待たずに独自の判断で完全完結型の 自律した医療支援チームの派遣を3 月14 日に決 定して翌15 日には出発しました。決定後すぐ に出発できたのは医師会事務局が一丸となって 準備して頂いたおかげです。日本医師会が JMAT の派遣要請した時点で我々は現地で JMAT 沖縄となり、釜石医師会対策本部が立ち 上がってからは、その指揮下に入りました。

スライド4

4.派遣後の経過(スライド5、6)

まず始めは、被災地に入り活動拠点を形成す る事です。16 日に大槌町の城山体育館で活動 を始めました。一方、沖縄の医師会事務局では 派遣決定から直ちに後方支援態勢となりまし た。現地での活動と後方支援の両輪があって医 療支援が継続されています。さらに、重要なの は、ただでさえマンパワーが不足している県内 の医療機関や医療界が医療スタッフを出して下 さっているということです。現地に行かせてい ただているということは、この方々の代表であ るということです。

沖縄県医師会の活動を、釜石医師会対策本部 長の寺田先生が、ことあるごとに「沖縄の皆さ んには城山を守って頂いる」と言って下さっていました。予定される5 月一杯の派遣が終了す ると「城山を守った77 日間」となります。全 15 チーム延べで医師227 名、看護師184 名、 事務106 名の計517 名の派遣となります。

次に、現時点での城山体育館仮設診療所の診 療状況です。そして大槌町全体の患者さんの数 と城山での患者さんの数です。このスライドを 見まして、いくつかのチームが大槌町で活動し ているなか、沖縄県医師会はある一定の役割は 果たしていると思います。

スライド5

スライド6

東日本大震災医療支援活動 ―第1陣看護師として参加して―
琉球大学医学部附属病院 知名 智子
知名智子

3 月11 日14 時46 分 宮城県沖を震源とした 地震をテレビ報道で知 り、津波をまるで映画 のように感じました。

今回、沖縄県医師会 救助医療班第1 陣が編 成され、私は琉大DMAT チ ームから看護師として参加 し、岩手県大槌町における3 月16 日〜 20 日までの急性期 の災害医療支援活動について 報告します。

医療支援活動地は、岩手医 科大学対策本部で日常生活と 医療上の問題について説明を 受け、大槌町での医療支援に 決まりました。私たちの活動 は、災害から6 日目災害サイ クルフェーズ2 の段階で、救 急疾患看護や慢性疾患看護、 巡回診療、保健指導、感染症 対策、心のケアなどの看護を 行う段階で、医薬品以外に必 要品を全部持参した自己完結 型で行いました。

診療所は、大槌町の災害対 策本部のある城山公民館の避 難所内に立ち上げました。避 難所はライフラインが途絶 え、気温− 2 度で雪が降って いました。被災時は、津波が 引けば家に帰れると思い、着 の身着のままで避難した人が 多く、暖房設備がなく服を重 ね寒さをしのいでいました。

避難者の食事は、1 日2 食でした。

表1 :災害サイクルと看護

トイレの工夫(バケツから簡易トイレ)

トイレは、手作りのバケツにビニールを敷 き、手洗いの水は、沢から水で手を流しトイレ の外でアルコールの手指消毒を行っていまし た。78 歳のボランティア女性リーダーを中心 に1 日2 回トイレ掃除をしていました。トイレ の設備が不十分なため水分を控えたり、トイレ を我慢することが多く、膀胱炎や便秘の方もい ました。3 月19 日には、簡易トイレと防臭剤が 届きました。3 月20 日には移動トイレが設置さ れました。

水道は、自衛隊が階段を利用して簡易水道を 設置し、神戸からの給水支援がありました。

電気は、自衛隊や消防、警察本部では自家発 電を使っていましたが、被災者は夜になると真 っ暗な中で過ごしていました。

被災者からは、「沖縄からですか、遠くから ありがとうございます。基地問題に関心がなく て済みません。ありがとうございます。沖縄は いいところですか」と声をかけられ被害状況を 教えてくれました。

私たちが設置した診療所は、約500 人避難者 がいる公民館を卓球台で仕切りました。

診療は、保健師に問診を依頼し、看護師がバ イタルサインのチェックを行い、医師の診察・ 処方・処置の外来一般診療です。診療時の感染 予防では、手袋とマスク着用で診察を行い、入 り口にアルコール手指消毒、爪切り、マスクを 整備しました。

診療に必要な医薬材料は、公民館にある籠や ボックスで整理しました。ごみは、一般ごみ・ 感染性ゴミ・医療用廃棄物に分別しました。点 眼や傷の洗浄には、ペットボトル水を使い、洗 浄液後の汚染水は、ビニール袋に新聞紙で吸収 させました。

診療記録は500 枚準備しました。高血圧の場 合、160 未満は処方せず、翌日血圧測定で健康 チェックを行いました。肋骨骨折の患者には、 バストバンドの代わりにシーツを裂き、ガムテ ープで固定しました。

表2 :診療患者数

診療患者数は、直接来院者と保健師からの 依頼で巡回診療を行い、5 日間で合計458 人で した。

保健指導としては、39 度台の発熱と関節痛 からインフルエンザと判断し隔離を行い、保健 師と共に体育館を回りマスクの着用と1 日2 回 のラジオ体操時の換気を促しました。手指消毒 は、保健師の指導で徹底されていましたが、爪 はのび手洗いが不十分な状況では、爪切りが大 切な衛生管理になると思いました。

私たちの活動した被災地への急性期の支援で は、温かい食料や清潔な飲料水が必要だと感じ ました。また、医療者や行政の職員も被災者で あり懸命に働き、そこで頑張っている人たちが 休める応援体制と医療支援を継続する必要性を 痛感しました。

3 月の気候は、寒くスギ花粉が飛ぶ中での活 動で、食事は1 日2 回パンや缶詰で、周囲へに おいが漏れないように車の中でコーヒーを飲 み、温かい食事がとてもおいしく贅沢に感じま した。無事に第2 陣に引き継ぎ活動を終了し、 支援していただいた方々への感謝と被災地の復 興を祈りつつ報告を終わります。

質疑応答

○玉井理事 近藤助教授にDMAT について教えて頂きたいと思います。

○近藤助教

近藤助教

今回、東北大震災が 起こってDMAT という 言葉を良く聞くように なったかと思うが、元々 我が国には15 年前には DMAT は存在していな かった。阪神大震災が 起こった際にこれだけ医療が進んでいる日本が、 災害に対しては脆弱であった反省を踏まえて米 国を模範に災害派遣医療チーム(DMAT : Disaster Medical Assistance Team)が作られ るようになった。国が主導している唯一の災害 対策チームである。

現在では、全ての都道府県で、DMAT が設 置されており、沖縄県でも多くの病院でチーム を置いている。

今回の東北大震災以外の主な活動としては、 秋葉原の殺傷事件の際には、私も当時都内の救 命センターに在籍していたことから、実際に診 療にあたったが、その時もDMAT が出動して 一定の成果を上げている。

○赤嶺氏(沖縄タイムス社)

赤嶺氏(沖縄タイムス社)

被災地に運んだ物品 は元々リスト等マニュ アルがあったのか。

○出口先生 14日の午後、その場に集まったメンバーがこれまでの経験に基づいて決めた。

マニュアルは無かった。



○玉城副会長

玉城副会長

実際に第一陣が現地 に行って足りない物が 出たことから、予めリ ストアップをしておく ことが大事である。ま た、今回、薬を集めることに苦労した。医薬品は医療機関以外には納 品出来ない決まりがあることから、一端、私の 医療機関に納品した上で医師会に全て転送し た。また、薬問屋の在庫が少ない場合は、各医 療機関にご協力頂き、薬を提供してもらった。 今回の経験を踏まえ、いざという時のために必 要なものを揃えておきたいと考えている。



○安田氏(NHK沖縄)

安田氏(NHK沖縄)

被災地に持参した薬 等の購入費は誰が負担 したのか。また、もし 沖縄県が同様な震災を 受けた場合、空港が使 えなくなると本土から の医療支援チームが来 るまでにかなりの時間を要することになると思 うが、それについてのシミュレーション等は行 っているのか。

○玉城副会長 今後、沖縄県で震災が起こっ た場合の対応策についてはこれからの検討にな る。もし今、震災が起こっても全く動けないと 思う。行政ではこれからマニュアル作りを行う 段階である。

薬等の購入費については、初期の派遣時の薬 については、医療機関から無償でご提供頂い た。その後は、県内の問屋にもご支援をしてい ただき活動を行ってきた。

医療支援チームの派遣費については、沖縄県 医師会員に寄附依頼をお願いしたところ、約 1,200 万円が集まった。

5 月からは沖縄県当局と一緒に活動すること になり、岩手県から要請を受けた形で沖縄県の 事業として活動を行った。医療支援チームのメ ンバーについては従来どおり県医師会が募った。

また、日本医師会が中心となって、JMAT と して全国の各都道府県医師会の医師を派遣して いたことから、4 月分については、国から補助 が受けられそうである。そうなると会員から頂 いた寄附は余ることが予想されるので、これを 被災地の支援のためにどう役立てるか検討が必 要である。

沖縄県での災害については、沖縄のどの地域 で災害が発生しても、県医師会もしくは被災し ていない地域の地区医師会が医療支援の司令塔 の役割を果たせるような体制づくりを進めたい。

○玉井理事 以前、那覇空港内にて発生した 中華航空機の炎上事故では、結局現地に辿り着 けたのは、自らの意志で動いた者だけだった。 指示をまっていた者は現地に行けなかった。

○玉城氏(琉球新報社)

玉城氏(琉球新報社)

5 月31 日をもって現 地から引き上げるとの ことであるが、一方で は継続的な医療支援は 必要であるかと思うが、 6 月以降はどういった形 で支援をしていくのか。

○出口先生 沖縄県医師会としては5 月末までの支援となった。

医療支援を行いながらも、いつまで支援を行 えば良いのか考える時期が来る。ところが現地 の対策本部、岩手県、岩手県医師会側から医療 支援班に対して、何日付け で撤退しても良いとは言え ない状況にある。それは、 撤退を許可したことによ り、避難所等において患者 に不利益が生じてしまった 場合に責任問題が生じてし まうことと、善意で応援に 来てもらっている方々へ 「もう結構です」とはとても言えないということであった。

沖縄県医師会は釜石の対策本部と早くから一 緒に活動してきたため、お互いの信頼関係がう まくいっていたこともあり、調整の結果5 月31 日で撤退という結論になった。

しかしながら、現地の医療支援が終わるわけ では無く、その日をもって地元の開業医などへ 引き継ぐということである。当初1 日の患者が 100 名を超えていたが、徐徐に減り続けて20 〜 30 名となり、地元の開業医も診療を開始で きる体制になったことから、沖縄県医師会の医 療支援班は撤退し、その後は定期的に支援チー ムに巡回診療を行ってもらいながら、最終的に は地元の病院や開業医に引き継ぐことになる。

ソフトランディングをするための段階を踏む ことが重要である。

○玉城副会長 現在、患者さんを送迎できる ようバスの手配を調整中である。岩手県は日本 でも有数な医療過疎地である。現在は医療支援 班がいるため手厚い医療が受けられるが、いず れは引かざるを得ないし、もし今後支援要請が 来た場合は、単独で行うのでは無く、地元の診 療所や病院の応援に行く体制となる。実は、現 場で一番必要とされているのは保健師だが、現 在全く足りていない状況である。今後、この問 題を国としてどうするか問われることになる。

本来、我々が撤退した後は、岩手県医師会が 責任をもってチームで医療を支えていくことに なっているが、未だその体制が整っている状況 ではない。

○安田氏(NHK沖縄) どういった状況で保健師が足りないのか

○玉城副会長 避難所では、運動不足になっ たり、体力が衰えたりしがちで、インフルエン ザが流行ると大変なことになる。保健師は避難 者の健康状態の把握や体操を促したりしなが ら、生活環境を整える役目を担っている。

○玉城氏(琉球新報社) 一部の地域だけ独自の制度を持たせるような動きはあるのか

○玉城副会長 国は、戸数が多い仮設住宅地 では診療所を作るという考えを持っているが、 それならば公設で診療所を作ってもらい、地元 の医師に委託することが一番有効である。ただ、 国の考えは医師会に全く連絡が来ていない。

○出口先生 被災前の大槌町では、県立病院 が1 施設と開業医が5 人であった。ただ、県立 病院といっても常勤の内科医が3 名いるだけで ある。病床は60 床あったとのことである。この 体制で地域の医療を完結出来ていたとのことで あり、地元の開業医に聞いても震災前の医療体 制は非常にバランスが取れていたとのことであ った。土日は医療機関は休みということが定着 しており、必要な時には、車で約20 分かけて県 立釜石病院に行っていたとのことである。夜間 の当番制も話すら無かったとのことである。

現在は2 人が開業し、県立病院も近々開始す る。また、さらに2 人が今後開業する予定とな っている。そういった中で、仮設住宅地に国の 診療所が出来てしまうと、地元の医療は立ち上 がれない。元々、人口が1 万5,000 人の高齢地 域で、国保の加入率が全国でもトップ10 に入 るほどであったが、現在は恐らく1 万人前後で あると推測されることから、今後2 名の先生が 開業されると医療のバランスは保たれることに なる。

○玉城副会長 震災前から県立病院を縮小し てきた経緯がある。今回震災を受けてからベッ ド数を60 床から15 床に縮小される。外来の患 者が減ると県立病院自体が閉鎖されるのではな いかという意識を持っている。県立と名が付く 医療機関が無くなってしまうと、開業医に負担 が掛かってしまうことから、現在は県立病院仮 設診療所に行くよう進めているとのことであ る。大槌では県立病院が必要であるということ をアピールしたいとの思いがあり、仮に岩手県 が大槌町での県立病院は不要と判断した場合に は、地域医療をゼロから組み立て直さなければ ならなくなる微妙な立場にある。

○玉井理事 田名先生、沖縄県の医療班は地 域に受け入れられていたでしょうか。

○田名先生

田名先生

私は第9 陣というこ とで後半に被災地に入 った。チーム全員が着 用している黄色のベス トを見た避難所の皆さ んから感謝の言葉をか けて頂いた。そういう 意味でも避難所における診療所は一定の役割を 果たせたものと感じている。診療において感じ たことは、高血圧などの慢性期疾患の管理が重 要になるが、この際に個人が持っているお薬手 帳や、地域の薬局が持ち込んでくれたパソコン 上で過去の処方歴を確認することが出来たこと が、大変役立った。災害が起こったときに、保 険者から個人のデータをもらうことが難しいた め、災害時に薬局とどう連携していくか、また 緊急時のお薬手帳の重要性を国民にPR していくことが重要である。

また、避難所によって状況が全く異なってお り、大槌高校等はパテーションで綺麗に区切ら れていたが、県医師会が診療所を置く避難所は パテーションを置くことで隣通しがよそよそし くなるとの理由から躊躇して導入が進まなかっ た。感染症対策やプライバシーの確保の観点か ら宮崎県の保健師とパテーションの必要性に関 する説明会を行い、避難所内でも徐々に増えて きた状況である。

特に食事については、自治の組織が出来てお らず、炊き出しが不十分であった。おにぎりと バナナが配られたり、弁当が配られたり、暖か いものも毎日は出ていなかった。避難所によっ ては栄養状態の改善も急務である。

最後に、今回は宮崎県の保健師とは一体とな って協同活動が出来きた。このような多職種連 携が災害時は特に重要と感じている。