金城 毅
一昨年は丑年生まれの干支、年男だとのこと で本誌に投稿を依頼され、浅学非才で文才もな い身を顧みず、恥を忍んで趣味とワープロ練習 で詠んでいた戯れ歌の拙文を掲載させて貰った。
今年はもう二度とないだろうと思っていた が、金城忠雄理事の推薦(命令?)を断れず恥 の上乗りをするはめになった。格調高くアカデ ミックな本誌には馴染まないだろうとも思った が、ままよ老医師の日常を晒すのも一興かと再 投稿をする。
あな嬉し 還暦超して 古稀も過ぎ ワヤにすまいぞ 先ずは
忍び寄る 加齢の波に 意気込みの 初心流すな 生きてく誇り
生きてきた 昭和平成 波荒く
前記の通り一昨年は昭和12 年丑年生まれが 73 歳の「トゥシビィ」という訳であった。同じ 年生まれの友人の中には、過去の大戦で早逝し た不幸な奴もいたし、近年でも還暦を前に数名 が鬼籍に入った。我らとて戦前戦後を通じここ までに数え切れない苦楽を体験したが、この歳 まで生き長らえることが出来た者は、誰が何と 言おうと強運の持ち主であり目出度いことでは ないだろうか。
ポンコツの
馬鹿言うな ジジババ
長生きは喜ぶべき慶事には違いないだろう が、近頃では身体のあちこち均等にガタが来だ しており後期高齢に向け衰え出した心身をどう うまく活用すべきかそこが思案のしどころでは ある。終戦直後の子供の頃は主食は芋、友達も 皆裸足で駆けずり回って遊んでいた。その欠食 児童達のほとんどが、今ではメタボに悩む中高 年者になり果てている。若い連中も肥満が多 く、県民の健康状態も先が思いやられる。短く ても太くか、細く長く生くべきか何れを選ぶべ きか考え物だ。
神々も 責任はある
昔の人は「70 歳は古来希だ」とよく言った
ものだ。70 歳や80 歳或いは90 歳がけして希で
無くなった現代でも、やはり前頭葉あたりの大
脳皮質は
言動は 礼を重んじ 哀しきか
思い起こせば、戦前の貧しかった時代、大戦 中戦争の悲惨さも体験、終戦直後は食べ物も乏 しく毎日腹を空かして暮らした。学校もほとん ど焼き払われ、ガジュマルの下での青空教室、 教科書もなく写本するのが日課だった。この歳 までただ何となく馬齢を重ねてきたようでもあり、今更偉くなる筈もないし、ならなくてもよ い。財産だって、冥土への旅費の蓄えさえ有れ ば良しとしましょう。
孫を説く 昔は「ああだ」は
同年齢の友の中には気の持ちようで病気を予 防し、長生きが出来るのだと信じて疑わない奴 もいる。精神力とか気持ちの持ちようだけで寿 命が左右されるわけはない。
老年期に入ると近時記憶は衰え、10 年前の
出来事も1 年前も下手すれば1 ヶ月前の記憶も
感覚的にはあまり時間差がないような気がする
事もあり、そのような色々な要因が重なって時
間の速さに錯覚が生じるのだろう。それにして
も、本当に「
早起きは
足腰も 使い過ぎれば ガタがきて 楽を決めこみゃ 退化するのみ
次の「生年」の丑年は11 年後の85 歳、とて も現世に生き残れる自信はない。生きていたと しても寝たっきりか認知症では浮かばれまい、 せいぜい生きている限りはボケず健脚だけは保 ちたいものだ。時々実際の歳より若く「65 歳 ですか?」と訪ねられたら、何故か73 歳とは 言わず「いやぁ74 だよワッハッハッ」と数え 歳で答え、誇らしい気分になって胸を張る。
せめて「
「若いねぇ」と 言われ喜ぶ 歳になり
願望は
定年後はあらゆる
順番は 鬼のみぞ知る
介護の問題では誰が誰を介護するのかすべき か等々自立できない年寄りの面倒は、犠牲を払 ってでも子供が看るべきか、施設に預け社会に 任せるべきか、ただ娘にしろ嫁にしろ女性に荷 は多く被さってくる。良きにしろ悪しきにしろ 生きて行くシガラミは何処までも付いてくるも のなのだ。
楽しいこと苦しいこと、嬉しいこと悲しいこ と、世話をしたりされたり、全てこれ人生行路 にはパック旅行のような付き物なのだ。どうせ 乗りかかった人生、終点まで伝統とシガラミの 宿命を背負って暮らすしかない。
たとえ「ひま」と「年金」があったとして も、年齢とともに気力・体力・知力・好奇心等 は衰え記銘力も覚束なくなってくる。衰えを見 せないのは若い頃そのままの食い意地、その報 いの体脂肪の蓄積、ブレーキのかからない加齢 そしてゴルフのスコアー増加だ。
良きことも やり過ぎゃ
口おしや
防ぎたき オシメ頼りが 近々に 来ると思えば 死ぬより怖い