曙クリニック 玉井 修
著者の野村進氏は医療関係の方ではなく、こ の本は専門用語を出来るだけ使用しない脳研究 の本です。2001 年に書かれたものなので、そ の後の脳研究の進歩具合から見ても精神科や脳 外科の先生方からみればこの本の内容に関して はあまり興味をそそられないかも知れません。 しかし、この本の真骨頂はその様な学術的脳研 究の詳細な解説ではないと思われます。自然科 学の解説に徹底出来なかった著者の視線が、脳 科学の行間を埋めていく様な気がします。むし ろ徹頭徹尾自然科学の解説書として書こうとし ていない部分が何といっても面白い。例えば脳 と早期教育という章の中では、人間の脳は約3 歳でその発達の最も重要な方向付けがなされ、 胎教に始まる早期教育がいかに多くの天才児を 生んでいるかという現実を紹介します。しか し、小学校入学前に高等数学を理解した脳を持 つ子供はその後どの様な人生を辿っていたか。 そのまま、超天才児として順風満帆な人生を歩 んでいったかという疑問が生じます。現実に多 くの早熟天才児は人格形成のチャンスを早期教 育の中で奪われ、依存症や自殺に繋がっている といいます。子供の可能性は無限だという定説 にも著者は異を唱えます。限られた子供時代に 何を学ぶべきか、それは情緒の成長に欠かすこ との出来ない時代でもあるのです。親に脅迫さ れた詰め込み型の早期教育が、子供の心を蝕ん でいる現状を細かくレポートしています。胎教 などと言いながら、妊娠中の母親がお腹の赤ち ゃんに日本地図を指さしながらここが北海道 よ、などとつぶやく姿は滑稽でもあり、恐ろし くもあります。
別の章では視覚と脳について書かれていま す。先天性白内障で生まれつき目の見えなかっ た15 歳の少女は、手術で初めて視覚を取り戻 す開眼手術を受けて目が見えるようになりまし た。初めて外界を見たときに彼女は喜びのあま り、涙を流したか?いや、現実には、ものが見 えることの戸惑いでしばらく日常生活に支障が 出てしまったのです。影が異物に見えて、跨い だり。閉じたはさみと開いたはさみが同じはさ みだとは認識できなかったり、視覚が事象の認 知に不可欠ではないことを物語っています。見 えるという事は確かに大切な感覚ではあります が、見えないことで人は不幸になるわけではな い。この章の最後にその開眼手術後30 数年経 過した後のその人の言葉が興味深い。「負け惜 しみみたいに聞こえるかもしれないけど、見え る人のことをそんなにうらやましいとは思わな いんですよ...中略...見たくないものでも見えて しまうこともあるでしょう。」
脳に関する自然科学を解説している本と思っ て読んでいたら、実際には心について深く考え させられ、幸福とは何なのかをもう一度考えさ せられる本でありました。あくまでも優しく、 温かな文章のタッチが爽快な読後感を与えてく れます。
脳を知りたい! 野村進 新潮社