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遥かなるロサリオへの郷愁

嶺井定一

嶺井医院泌尿器科 嶺井 定一

移民100 周年記念で、昨年ブラジル・サンパ ウロ市、アルゼンチン・ブエノスアイレス市は 記念行事で賑わった。しかし、アルゼンチンの 現政権下で、経済的危機状態が再び憂慮される 今日、特に地方はどうであろうかと、そのよう な思いを胸に自分の出生地ロサリオ市を訪ねて みた。

瘋癲の寅さん風に自己紹介すると、「私、ア ルゼンチンは、ラプラタ川の上流パラナ川の 辺、ロサリオ市で生を受け、その水で産湯を使 い、育ちはロサリオ市、大里村、名護町、那覇 市、久留米市と転々と暮らして参りました。名 は人呼んでFERNANDO と呼ばれております。 社会常識が、かなり欠落している医師が多いと 豪い人が発しておりますが、私もその中の一人 で、医師会の皆様にも迷惑の数々をおかけして いる無智な者でございます」。

アルゼンチンへは、アメリカのアトランタで 乗り継ぎ、ブラジルのサンパウロ経由で、数日 後、ブエノスアイレスへ這入り、一泊後、ロサ リオへ着いた。

ロサリオはアルゼンチンでは、ブエノスアイ レス、コルドバに次ぐ第三の都市で、現在、人 口約91 万の都市であるが、ガイド・ブックにも 掲載紹介されてなく、こゝに多少紹介したい。

首都ブエノスアイレスの北西310km のラプラ タ川上流のパラナ川右河畔に面した古い港町 (港町と言っても海はない)で、アルゼンチン北 東部への鉄道運輸の発着駅、パラナ川海洋船舶 の物流の拠点で、以前は相当繁栄した都市であ ったらしいが、私が20 年前(1986 年)訪れた 時は街は活気がなく、うらぶれた感が否めなか った。今回訪ねた時は、街並、道路も整備さ れ、高層ビルも立並び、建築中の高層マンショ ンも見られ、やや活気が戻ったように見受けら れた。

70 年以前、私達家族が住んでいた店舗兼住 宅は一部がマンションに立替えられていたが、 店舗の部分は未だ残っていた。20 年前訪れた 時は、県出身の方が、私達が使用していた店舗 兼住居をそのまま使用しており総べて当時のま ま残っていたが、5 年前に訪れた時には普通の 店舗に代わっていた。これまで幼少の頃、自分 が住んでいた住居を見届けることが出来ただけ でも幸いだったのかも知れない。

ロサリオ市の歴史を繙いてみると、アルゼン チンは、スペインの副領下にあった1810 年に 市民による反乱がおこり、1816 年正式に独立 を宣言しているが、その後も内戦状態は続いて いた。1853 年に共和制となり、憲法も制定さ れたが、首都を何処に置くかとブエノスアイレ ス州とアルゼンチン連合側に分かれて対峙し、 ロサリオの名も拳がったが、ロサリオは当時、 ブエノスアイレスより繁栄していたにも拘ら ず、サンタフェ州の首都はコルドバで、ロサリ オではないとの理由で認められず、ブエノスア イレスが首都に決まり、アルゼンチン共和国が 誕生した。

日系人のアルゼンチンへの移住は農業移民で はないため、農業従事者は、ほとんど居らず、 大多数は都市近郊の工場および喫茶店等で下働 きをしていたが、ロサリオでは精糖工場で季節 労働者として100 人前後が働き、更に鉄道工事 にも従事しており、多数の日系人が滞在してい たようで、日系人のカフェ店(喫茶店)等も繁 盛していたようである。

コルドバはロサリオと同州にあるが、首都ブ エノスアイレスよりも数年も早く繁栄し、1613 年にはアルゼンチン初のコルドバ大学が誕生し て、この大学から数多くの文人、政治的中心人 物を輩出している。歴史に残る反政府運動や大 学革命運動もこの地を中心にアルゼンチン各地 に波及している。

最近、我国でもErnesto《che》Gue ・va ・ra の映画が上映され、長女の小児科医イルディ タが来日し講演会等が行なわれている。

ゲバラの本名はErnesto Rafael Guevara de la Serna で、ロサリオ出身であり、医師であ ることはよく知られているが、彼はコルドバ大 学出身ではなく、ブエノスアイレス大学の出身 である、僅か3 年間で医師の資格を取得したと 伝えられているが、果して短時日で名医になれ たであろうか。

彼を崇拝する人々はイデオロギーや宗教観に 囚われず、実現困難な理想世界をめざし闘い続 け、人間愛と正義感に溢れた革命家であると評 価している。従って以前より記念碑建立の事柄 が提起されていたようであるが、2003 年以降、 大統領がキルチネス、フェルナンデスと左派政 権が続き、特にキルチネス(正義党)は青年時 代《che》Gue ・va ・ra を敬愛していたので、 彼を再評価する動きがおこり、生誕80 周年に 当たる2008 年6 月14 日、誕生の地であるロサ リオに銅像が建立された。場所は広大な花も木 も無い殆ど草原のような公園の中央にある。銅 像は高さ4 メートル、重量約3 トンで、一般の 人々から集められた銅製の金具や鍵などを溶か して作製されたと言われている。しかし、一生 を武力闘争に身を投じた《Che》Gue ・va ・ ra の行動、生き方に対してはアルゼンチン国内 でも「狂信的」と批判する声も強いと聞く。

現大統領クリスチーナ・フェルナンデスに関 しては、1974 年ペロン大統領の死を受けて副 大統領から昇格したイサベル・ペロンに次いで 二人目の女性大統領で、通称エビーターの再来 と大いに期待され、「貧困や高失業率を解決し、 よい国にしたい」と大統領当選勝利宣言をや り、2007 年末に夫のキルチネス前大統領より 政権を引き継いだが、最近は世界的大不況にも よるが、大豆や、小麦などの穀物の国際価格の 急落の影響を受け経済が急速に減速している。 従ってフェルナンデス大統領は、就任から 2008 年12 月で満1 年を迎え、就任当時56 % の支持率があったが、最近では28 %まで落込 み、国民から見放されつつある。

アルゼンチンの日系人においても、国内外の 不況により、日本への出稼ぎも少なくなり移民 100 周年を祝ったものの景気悪化で経済不況は 深刻である。

戦後、アルゼンチンへ大人に連れられ家族と 共に移住した小学生、中学生の児童は幼少時 に、自分の意志とは関係なく、異国の荒波の中 に放り込まれ、言葉の問題や生活習慣、文化の 違いが齎す差別に苦悩し、特に戦後移民は裕福 ではなく、幼い子供達も家業を助けるため労働 力として駆り出され、高等教育を受ける機会も 与えられず、従って生活が安定した職業に就き たくとも学歴面等のハンディがあり就けず、虐 げられてきた。彼等も既に50 〜 60 歳等の老齢 期に達しており、高齢化した彼等一世の福祉の 問題も提起され、異国に滞在する日本国民とし ての同胞に何らかの援助の手を差し伸べてもら いたいと痛切なる叫びの訴えがあった。

以上、ロサリオを中心にアルゼンチンの近況 を述べた。

参考文献および資料
1)らぷらた報知(新聞) らぷらた報知社。2001 〜 2008 年度
2)アルゼンチン日本人移民史 第1 巻 戦前編 社団法人 在亜日系団体連合会
アルゼンチン日本人移民史編纂委員会 2002 年 3)アルゼンチンのうちなーんちゅ80 年史 アルゼンチンうちなーんちゅ80 年史編集委員会 在亜沖縄県人連合会 1994 年
4)革命児ゲバラ 風媒社 1968 年
5)ゲバラを脱神話化する 大田昌国著 現代企画室 2000 年8 月