あいわクリニック
(国立沖縄病院名誉院長)
源河 圭一郎
85 歳以上の四人に一人が罹患する「認知症」 は、高齢者の増加とともに今後ますます身近な 病気として、医療・介護の両面から適切な対応 が求められている。診療の現場で高齢者が受診 する機会が多く、認知症の早期発見・診断など を担う重要な存在である一般医師を対象にし て、沖縄県でも平成19 年度から「かかりつけ 医認知症対応力向上研修会」を開催し、数少な い認知症サポート医が豊富な経験を生かして講 師を務める研修が県内各地で行われている。
「認知症」の進行とともに家族や介護職員の 負担が増大し、介護疲れや虐待から起こる悲劇 がマスコミに取り上げられる事態は、世相の反 映そのものである。「認知症」に必ずみられる 症状として物忘れや判断力の低下などの中核症 状と、環境や人間関係などに起因する抑うつ、 妄想、幻覚、不穏、徘徊などの周辺症状があ る。認知症患者本人や介護者を苦しめ、深刻な 介護地獄をもたらすさまざまな問題行動は、周 辺症状に含まれる。
認知症、とくに周辺症状は社会環境によって どのような影響を受けるであろうか。この問題に ついての示唆に富む研究があるので紹介したい。
その調査研究は琉球大学精神科(当時)の真 喜屋浩先生が中心になり、日本復帰3 年後の 昭和50 年に沖縄の農村で行われた。対象とな ったのは佐敷村(現・南城市)在住の65 歳以 上の高齢者708 名である。報告によると、明ら かに「老人性痴呆」と診断された人の中で、う つ状態や幻覚・妄想状態などの周辺症状を示し た人は皆無であったという驚くべき事実があ る。同じ頃に東京で行われた調査では、「痴呆 老人」の半数に周辺症状がみられたという。真 喜屋先生は、「佐敷村のような敬老思想が強く 保存され、実際に老人があたたかく看護され尊 敬されている土地では、老人に精神的葛藤がな く、たとえ器質的な変化が脳に起こっても、こ の人達にうつ状態や幻覚・妄想状態は惹起され ることなく、単純な痴呆だけにとどまるのでは ないか」と考察している。
周辺症状のない穏やかな痴呆状態を学術用語 で「単純痴呆」と呼ぶが、臨床医としての立場 から終末期医療に取り組んでいる大井玄東大名 誉教授はこれを「純粋痴呆」と名付けて、真喜 屋先生の報告を高く評価するとともに、「幸せ で穏やかな痴呆」が生まれる背景に言及してい る。現在のような都市型の効率重視社会では 「純粋痴呆」の生まれる素地は無いと見るべき であろう。深刻な問題行動は、プライドを傷つ けられ、ストレスに曝された高齢の認知症患者 に起こりやすいと思われる。
30 年前の日本復帰前後の沖縄には、痴呆が あっても社会生活を営むことが出来るゆったり とした時間が流れていたと推定される。人情に 厚く、敬老精神に溢れ、痴呆老人が環境に順応 し、人間関係から生じるストレスが最小に抑え られた結果、問題行動がほとんどみられない社 会が沖縄の農村に実在したのである。しかしそ の後の本土との急速な一体化によって社会環境 が激変した。
周辺症状を伴わず、問題行動と無縁な「純粋 痴呆」を取り戻し、記銘力の喪失のみか、時間 と場所の見当さえつかなくなった高齢者が尊厳 ある生を全うできる共同社会が沖縄に再び到来 する日を夢見ている。
参考文献
1)真喜屋浩:沖縄の一農村における老人の精神疾患に
関する疫学的研究、慶応医学55 : 503 − 512,1978
2)大井玄:痴呆の哲学、弘文堂2004
3)大井玄:「痴呆老人」は何を見ているか(新潮新書)、
新潮社2008