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名前を残すということ
―医生教習所記念碑によせて―

村田謙二

公立久米島病院院長 村田 謙二

記憶はすでにおぼろげだが、小学校の高学年 の頃、父に連れられて波上宮境内にある沖縄医 生教習所記念碑を見に行った。碑文の文面は漢 字カナ混じり文で、難文である上に所々に刻字 の欠落があって意味不明、小学生の私に読める はずもなかった。父は碑の裏側に私を連れて行 き碑の真ん中あたりを指し示した。そこに祖父 の村田精成の名があった。

それまで、私にとっての祖父は、孫の来訪を 笑顔で迎えるものの、会話らしい会話も成立し ない好々爺とした老人でしかなかった。昔医師 だったと聞いてはいたが、まるで現実味がなか った。しかし、碑文の前で父から聞かされた祖 父像は違っていた。

さて、医生教習所、その記念碑といってもご 存知ない読者もいると思われるので、ここで少 し付記しておきたい。以下の内容は平成11 年 9 月に発刊された沖縄県医師会報の特別増刊号 「沖縄医生教習所碑再建記念誌」に拠っている。

明治18 年沖縄で初めての近代西洋医学教育 機関として医学講習所が沖縄県医院内に設置さ れた。明治22 年には沖縄県病院付属医生教習 所と改められ、場所は何度か変わったが、明治 34 年からは松下町(現松山公園)にあったと いう。明治45 年の医術開業試験法の改正に伴 い、閉校になるまでの28 年間に565 名が在学 し、そのうちわずか約30 %の172 名が医師の 資格を取得した。ちなみに東京の同等の施設 「済生学舎」の場合でも取得率は44 %であった という。

記念碑は昭和3 年当教習所出身の有志によ り、文学者東恩納寛惇の撰文を医師山城正心が 書し建立された。幸いにも大戦の戦禍を生き延 びたが、損壊がはげしく倒壊の危険を憂慮し て、平成11 年再建委員会委員長長田紀春先生 らのご尽力により、同じ場所に新たな碑が再建 された。

資料によるとわが祖父村田精成は明治36 年 第14 期生として卒業している。当時は教習所 で学んだ後に長崎か熊本での医術開業後期試験 に合格せねばならず、勉学の努力と同時にある 程度の財力が必要だったようである。わが祖父 の場合はこうだった。祖父は三男だったため、 親からの財産は一切なかった。幸いにも妻の実 家が裕福だったので、そこから財政的援助を受 けて医師になった。当時の往診は馬に乗って行 っていたが、馬が好きになり好きが昂じて馬で 事業を目論んだらしい。残念ながら事業は失敗 し借金を作り、借金返済のために待遇の良い村 を転々とした。返済が終わって後故郷の今帰仁 村で村医として働き、終戦直前には郵便局に3 万円の貯金があった。この額は村で一番多かっ たそうである。当時の一円が今のどのぐらいの 価値があるか私には判断できないが、円の下に 銭という単位があったことから考えると大金で あったのだろう。大戦中は国が軍資金を得るた めに国民に郵便貯金を奨励していたとのことで ある。

不幸な事に沖縄は終戦後米国の統治下に入っ たため、この郵便貯金は長い間凍結された。や っと払い戻しがされたのは戦後十数年以上たっ てからのことで、なおかつその当時の貨幣価値 に換算されることなしに、終戦時の額に利息が 付けられただけだと聞いている。

そんな訳で、ある程度裕福な家の子であった はずの父は、青年期金銭的には苦労したようで ある。学徒動員、終戦、結婚、2 児(私が次 男)をもうけてから歯科医師を目指し東京の大 学へ進学した。学生時代三男も誕生した。当時 は沖縄から本土への送金は額の制限があったこ ともあいまって、一家5 人は随分と貧乏した。 私は2 歳から小学校へ上がるまで東京で暮らした。家が貧乏であることは子ども心にも理解で きたが、つらい思いも随分と経験した。今では その経験があればこそ、贅沢を戒める心ができ たと感謝しているが。

話がだいぶずれて来たが、脱線ついでに面白 いエピソードを特別増刊号から拾ってみる。教 育者でもあった東恩納寛惇の嘆きである。(昭 和4 年記)明治当時世間は、医生教習所生を師 範学校や中学の学生に比べて低く見ていた。後 者に入れない人が多く行ったからで、規律もか なり緩やかであったらしい。しかし、後年の沖 縄の政治や経済を支えたのは主に医生教習所出 身の者達であったとのこと。中学や師範の教育 が、厳しい割には教育の実効が上がっていない と嘆いているのである。試験での秀才が実社会 では必ずしも成功者になっていないのは、当時 も今も変わらない。

さて話を元にもどそう。無念なことが多かっ たはずの祖父の人生。父も実は医学を目指した かったが、一人前になるのには時間がかかるの でやむなく歯科医の道を選択したとのこと。そ れらの事を聞きながら私は育った。今にして思 えば私が医学の道を選んだのは、祖父や父の無 念を晴らすためだったのかも知れないと思えて くる。理由はともあれ記念碑を見たことが医学 への動機付けの1 つになったことは確かであ る。それに気づいた時、私は双子の娘たちを連 れて碑を見に行き祖父や父の話をした。碑の霊 験は今なお顕在で、長女は今医学の道を進み、 次女は妻を見習って薬剤師になり今春就職し た。碑を作る際に寄付金を寄せた祖父は、孫や ひ孫の心に影響を与えるとはよもや思いもしな かったであろう。しかし、名前を残すというの はそういうことなのかも知れない。

県医師会の理事会の折、会館建設で費用が足 りなくなったら寄付を募って名前を明記するの はどうかという案が出た。私は発言を差し控え たが、案が実現されたらまだ見ぬ我が子孫のた めに進んで寄付しようと心ひそかに思った。

沖縄医生教習所碑

沖縄医生教習所碑