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鎌倉・東慶寺を訪ねて 〜釈宗演と菩提樹〜

長嶺信夫

長嶺胃腸科内科外科医院
長嶺 信夫

駆け込み寺・東慶寺

北鎌倉駅は小さな駅であった。プラットホー ムの端に駅員が立ち切符を受け取っている。片 田舎の駅によくみかけるもので、駅構内と外部 との仕切りもさだかでない。線路にそって歩を 進めると左手に大きな寺がみえた。鎌倉の円覚 寺である。東慶寺は線路をへだてた松ヶ岡とい う小高い岡の上にあった。

「駆け込み寺」としても有名な東慶寺は一見 めだたない寺である。高い石段を登り小さなか やぶきの山門をくぐる。山手にむかって真っ直 ぐのびた通路があり、遅咲きの梅がなごりを惜 しむかのように咲いていた。右手の寺院受付で 参詣料をはらい、訪問の趣旨をのべるとやがて 中年の婦人がみえた。事前に電話で応対してく れた婦人のようである。右手の閑静な建物に案 内された。東慶寺書院と庫裏のようである。庫 裏と思われる建物は岡という立地のせいか、え らく高い縁側で縁取られ、その縁側の上にその 樹があった。

写真1

写真1.鎌倉・東慶寺の境内 遅咲きの梅花が咲いていた 〈2008 年3 月15 日撮影〉

ひなたぼっこしていた「聖なる菩提樹」

「これがその菩提樹です」

指し示す縁側の上に1 メートル50 センチほど に育った菩提樹がみえた。見ると鉢は滑車つき の台の上に載せている。まだ朝夕冷えるので、 夜間は屋内に入れ、天気の良い日はこのように 日のあたる南向きの縁側に出しているのだろ う。日々これを繰り返しているのである。

「もう大丈夫ではないですか!」

「いや、まだ霜の心配があるので、夜は室内 に入れています。以前京都から入手した菩提樹 を枯らしたことがありますから」という。訪問 したのは3 月15 日でかなり暖かくなっている ものの万一を考え、大事をとっているという。

写真2

写真2.スリランカ政府から贈呈された「聖なる菩提樹」 〈2008 年3 月15 日撮影〉

釈宗演と菩提樹

予想したとおり菩提樹は大切に育てられてい た。それだけの取り扱いがなされてあたりまえ であった。松が岡の苔むした岩陰のもと、釈宗 演師(写真3、1859 〜 1919)もその扱いに満 足していることだろう。

今回の随筆の主人公の一人である釈宗演師は 円覚寺管長代理の要職についたものの、思うこ とがあって慶応義塾の門をたたいている。しか し、塾内にはびこるキリスト教の影響やあまりにも早い近代化の流れに自信を喪失していた。 その宗演を励まし、スリランカでの仏教研鑽を 勧めたのは塾長の福沢諭吉であった。山岡鉄舟 もその資金として当時としては大金の50 円を 援助している。

宗演は1887 年、27 歳の時、スリランカに渡 り、3 年間スリランカの南部ゴール近郊の寺で 苦学し、上座部仏教を学んでいる。その時、イ ンドでの仏教復興者であり、インド大菩提協会 の創設者であるアナーガリカ・ダルマパーラ 〈Anagarika Dharmapala 1864 〜 1933 写 真4〉と知り合っている。帰国後は32 歳の若さ で円覚寺派の管長に就任し、翌年(1893 年) にはシカゴで開かれた万国宗教会議に日本の仏 教代表者の一人として参加、禅を海外に紹介し た。また、宗演は請われて建長寺派管長も兼 任、管長辞任後は臨済宗大学(現花園大学)学 長などを歴任し、晩年を東慶寺で過ごした。宗 演は夏目漱石の葬儀の際、導師をつとめたこと でも知られている。

写真3

写真3.釈宗演師

熱血漢〜ダルマパーラ

もう一人の主人公であるアナーガリカ・ダル マパーラはスリランカの良家の生まれである。 当時のスリランカはイギリスの植民地で、仏教 の活動は制限され、キリスト教への改宗を強制されていた。生まれた子供は洗礼を受けなけれ ば登録されず、結婚も同様だったという。誇り 高いシンハラ人として人一倍民族意識が旺盛だ ったダルマパーラは当時世界で唯一西洋と対等 な地歩を築いていた東洋の仏教国・日本に心酔 していた。そして、ブッダの教説こそが、殖民 地と化していたアジアを西欧から解放する精神 的原動力になると信じていた。

ダルマパーラは1889 年にはじめて日本を訪 れている。その2 年後の1891 年1 月に、釈興 然と徳沢智恵蔵という二人の日本人とともにブ ッダガヤを訪れている。仏陀成道の地で彼は感 涙にむせびながらも、あまりにも荒廃した聖地 の現状を嘆き、仏教復興に全生涯をかけること を誓っている。そして同年インド大菩提協会を 自ら設立している。また前後4 回も日本を訪 れ、仏教国・日本をインドとともに第二の祖国 と考えるほどであった。また、政治、経済を含 め、インドと日本の交流の窓口になっている日 印協会の設立に多大な貢献をしている。筆者の 手元にある日印協会会報の第一号(復刻版)の 会員名簿のなかにダルマパーラは大隈重信らと 名を連ねている。現在の日印協会会長は森喜朗 元首相であるが、歴代の会長も錚々たる方々 で、2002 年に創立100 周年を迎えている。

ダルマパーラはブッダがはじめて法を説いた初転法輪の地であるインド・サールナート(鹿 野苑)にムラガンダクティ寺院(初転法輪寺) を建設〈1931 年落成〉するために心血をそそ いだ。また多くの反対をおして寺院の壁画制作 を日本に依頼している。壁画は日本人画家・野 生司香雪によって描かれてからすでに70 余年 が経過しているが、今も寺院で訪問者を温かく 迎えている。

写真4

写真4.アナーガリカ・ダルマパーラ居士

スリランカ政府から菩提樹の贈呈

このように日本はスリランカやインド大菩提 協会と深いきずなで結ばれている。この縁で、 今回、スマトラ沖地震・津波被害に対する日本 スリランカ協会の支援に対し、スリランカにお ける最も貴重な樹である「ブッダゆかりの聖な る菩提樹」の分け樹がスリランカ政府から日本 スリランカ協会に贈呈されたのである。そし て、100 余年前、スリランカで修業し、のち日 本の偉大な仏教指導者になった釈宗演師を偲 び、日本スリランカ協会は贈呈された菩提樹の 植樹地として鎌倉の東慶寺を選定したというこ とである。

スリランカ出身のアナーガリカ・ダルマパー ラ、インド大菩提協会、初転法輪寺、日本、こ の深い因縁をみるとき、沖縄県民に対し2003 年インド大菩提協会から門外不出の菩提樹が贈 呈されたこともその因縁の延長線上といえよう。

DNA 鑑定書つきの菩提樹

日本スリランカ協会が2005 年10 月25 日に 発行した日本スリランカ協会報・速報版による と、スリランカでの菩提樹贈呈式は2005 年9 月17 日にアヌラーダプラのスリーマハー菩提 樹寺院で盛大に挙行され、ついで9 月20 日コ ロンボの首相官邸でマヒンダ・ラージャパクサ 首相から直接菩提樹の贈呈を受けたとのことで ある。持帰られた菩提樹は、前述したように鎌 倉の東慶寺の庭に植えていただくことになり、 贈呈式が同年10 月23 日、日本スリランカ協会 会長(福田康夫首相)や駐日スリランカ大使列 席のもと東慶寺で厳粛に挙行されている。

松ヶ岡に眠る先人たち

東慶寺の中央を山手にのびた通路をさらに進 むと奥には小高い岡があり、その岡に釈宗演師 および宗演の友人で弟子ともいわれた禅学者鈴 木大拙や哲学者西田幾多郎、安宅産業の創設者 安宅弥吉、実業家野村洋三の墓があり、さらに これらの人達と交流があった哲学者和辻哲郎、 岩波書店創業者岩波茂雄、作家野上弥生子夫 妻、出光興産創業者出光佐三、元学習院院長安 倍能成らが苔むした墓石の下で静かに眠ってい る(2008 年5 月記)。

参考文献
1.井上禅定:釈宗演伝、禅文化研究所、2000 年
2.森清:大拙と幾多郎、朝日新聞社、1991 年
3.中村元監修、金漢益訳注:キリスト教か仏教か―歴史 の証言―、山喜房佛書林、1995 年
4.Maha Bodhi Society of India 編: The Sacred Bodhi Tree in Sarnath“The Tree of Enlightenment" Dharmadoot 2000 年
5.野口復堂:這般死去せし「ダルマバラ」居士が始めて 日本に入りし道筋、現代仏教、No.106、1933 年
6.高楠順次郎:ダンマパーラ居士の訃音、現代仏教、 No.106、1933 年
7.小池賢博 真鍋俊照 溝渕茂樹 宮川洋一 編集・解 説:野生司香雪 仏画の世界、信濃毎日新聞社 1987年