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島ムニとやいま歌と私

照屋寛

てるや内科胃腸科 照屋 寛

スポーツや遊びなどの趣味が全くない私にと って唯一の趣味が八重山民謡である。世間では 八重山民謡と通称されているが八重山では「や いま歌」と呼ばれている。私が「やいま歌」に 興味を持つようになったのは自身の生育環境に 因るところが大きい。

現在、私は自分が生まれ育った実家の地に自 宅併設の医院を新築開業し両親と同居している が、私はその地で祖父母、両親が同居する3 世 代家族の中で育った。そして祖父母、親、親類 の話す島ムニ(本島では方言を「島クトゥバ」 というが石垣では「島ムニ(シィマムニ)」と いう)をいつも聞いていた。祖父は時々三線 (三味線)を弾くことがあった。そのような環 境のせいもあり自然と共通語のリズムとは異な る島ムニのリズム感が私にはしっくりくるよう になっていった。

高校を卒業し沖縄本島に住むことになった が、当然ながら日常生活で八重山方言のリズム 感を感じることは全くなくどこかしら寂しさを 感じながら日々を過ごしていた。

ところがある日帰途につくため大学のループ 道路を歩いていたらループ道路脇にあるサーク ル棟(様々なサークルの部室が集合している建 物)から三味線の音色が聞こえてきた。それが 八重山民謡の音色であることはすぐに判った。 言いようもない懐かしさを感じた。その音色の 発信源が以前から存在は知っていた琉大八重山 芸能研究会(通称八重芸)の部室であることも すぐに判った。しかし部室を訪ねる勇気がなく その時はその場を去った。

それからその時の音色が耳から離れず八重芸 に入部したい思いはあったが三線を弾くことの 気恥ずかしさから入部を躊躇していた(当時は 現在とは違い三線など弾いていると同世代から は奇異の眼でみられた)。そんな時八重山高校 の同級生である友人から「一緒に八重芸に入部 しないか」と誘われた。その友人はこれまでは 八重山芸能には全く興味のない人であっただけ にその誘いは意外ではあったが、これ幸いと応 諾した(友人にも八重芸に入部する相応の理由 があったようだ。彼は後に部長を務めた)。入 部の申し込みに友人と一緒に八重芸の部室を訪 ねた。初めて訪れた場所なのにそこには懐かし さがあった。入部を申し出て許可された。入部 後三線の稽古が始まった。祖父が三線を弾いて はいたが私は、全くの初心者で三線の持ち方、 押さえ目、工工四(「くんくんし」と読み三線 の楽譜である)のよみかたなどを徹底的に指導 された。また発声法も教わった。数ヶ月後には 不安定ではあるが工工四を見ながら弾唱出来る ようになった。数曲は暗譜して歌えるようにも なった。当然ながら八重山民謡は八重山方言で 歌われるので「やいま歌」を歌うことで島ムニ のリズムを感じることができるのが心地よかっ た。あとで知ったことだが「ドレミファソラシ ド」のレとラがないのが琉球音階であり、ファ とシがないのが八重山音階であるようだ。その ような音階の違いは沖縄方言と八重山方言のイ ントネーションの差異から生じていると考えら れ、私が「やいま歌」に島ムニのリズムを感じ 心地よかったのもそのことによるのかもしれな い。「八重芸」では歌・三線以外にも農民が農 作業、家作りなどの時に作業をしながら歌った 作業歌の「ゆんた、じらば」、祭祀に歌われた 「あよう」(総称して「八重山古謡」と通称され ている)なども教わった。古謡はアカペラ歌謡 なので節歌(ふしうた)と呼ばれる三線伴奏の ある歌よりも島ムニのリズムをより感じること ができるので私は節歌よりは古謡のほうが好き である。「八重芸」には女子部員もおり彼女ら は専ら踊りを担当していた。定期発表会では男 子部員の弾唱で女子部員が踊り、フィナーレで は往昔の「毛遊び」(石垣では「夜遊び」、「浜遊び」と呼ばれていたようである)を再現させ るべく男子部員、女子部員が三線、笛、太鼓で ともに歌い踊る演出もあった。私は踊りは不得 手であった。センスのあるものは笛、太鼓もこ なしていた。蛇足であるが私の妻は宜野湾市の 出身であるが八重山芸能に興味を持ち八重芸に 入部し後に部長も務め、更には八重山古典民謡 箏曲師範免許も取得した。また舞踊もそれなり にこなすことができる。いわば八重山芸能の強 者(つわもの)である。大学4 年で「八重芸」 は卒業し大学5、6 年次は臨床実習、国試の準 備のため忙しく「やいま歌」に関わることが少 なくなり寂しさもあったが、勉強の合間に時々 「やいま歌」を弾唱して寂しさを紛らわしつつ 気分転換も図っていた。

大学卒業後、第一内科に入局した。私は高校 の頃から医師になったら故郷で医療活動をする と決めていた。また学生の時から内科医になる ことも決めていた。琉大医学部の内科医局で八 重山病院を関連病院としているのは第一内科の みであった。なんの迷いもなく第一内科に入局 した。大学病院、関連病院での研修中もいつも 八重山病院で勤務するには何を修得すべきかを 考えながら研修していた。そして医師7 年目〜 9 年目、13 年目〜 16 年目の合計7 年間八重山 病院で勤務する機会を得ることが出来た。八重 山病院勤務中は得るものが多々あり、私を本当 の一人前の医者にしてくれた。八重山病院でず っと勤務しようかとも考えたこともあったが、 時々生まれ育った両親の住む実家に行くと実家 を含めたその周辺の集落は古くからの集落であ りそこは私に懐古感だけでなく安らぎ感も与え てくれた。次第に実家のある土地で開業したい 気持ちが大きくなり八重山病院を辞し医院兼住 宅を新築することを決心した。設計士をしてい る兄に建物の設計監理を依頼し平成18 年11 月、医院を新築開業した。

現在、自分の生まれ育った実家のあった土地 で仕事をし生活をしている。昔に比べ島ムニを 話す人も少なくなった。しかし私は島ムニのリ ズムを感じながら心地よく日々生活を送ってい る。それは島ムニを話す人が少なくなっても自 分の生まれ育った地には昔の感覚がいつまでも 残っているからである。私を幼い頃から知って いる近所の方々が患者さんとして来院してくれ る。「やいま歌」を弾唱することでいつでも島 ムニのリズムを感じることができる。妻と一緒 に「やいま歌」に興じ、時には歌談義もする。 両親との会話も共通語が主ではあるがそこには 島ムニのリズムが感じられる。それら諸々が私 を島ムニのリズムの中に引き込んでくれる。こ れからも自分の生まれ育ったこの地で仕事をし 生活をし「やいま歌」を弾唱することで島ムニ を話せる人がどんどん少なくなっていってもい つまでも島ムニのリズムの中で心地よく過ごし ていけるのではないかと思っている今日この頃 である。

★リレー状況
−平成17 年以前掲載省略−
31.友利正行先生(ともり内科循環器科) Vol. 42 No.2
32.具志一男先生(ぐしこどもクリニック) Vol. 42 No.4
33.神谷鏡子先生(かみや母と子のクリニック) Vol. 42 No.6
34.呉屋良信先生(わんぱくクリニック) Vol. 42 No.9
35.江洲浩明先生(はえばる耳鼻咽喉科) Vol. 42 No.11
36.真栄城徳秀先生(真栄城耳鼻咽喉科) Vol. 43 No.2
37.野原昌亮先生(野原整形外科) Vol. 43 No.4
38.平良章先生(にしはら耳鼻咽喉科) Vol. 43 No.5
39.仲程一博先生(南西耳鼻咽喉医院) Vol. 43 No.7
40.松尾周一先生(まつをレディースクリニック) Vol. 43 No.10
41.藤井弘人先生(ひふ科藤井医院) Vol. 43 No.11
42.宮良長治先生(宮良眼科医院) Vol. 44 No.4