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古文書に見る「聖なる菩提樹」の歴史(後編)

長嶺信夫

長嶺胃腸科内科外科医院
長嶺 信夫

5.現在のブッダガヤの菩提樹の由来

現在ブッダガヤに生えている菩提樹が何時、 どのようにして植えられたか興味がもたれる が、現在生えている菩提樹の先代の樹について カニンガムの貴重な記録がある。

それによると、「1862 年12 月にこの樹を発見 した時、樹は非常に弱っていて、3 本の枝をつけ た西方に伸びている1 本の大きな幹がまだ緑で、 残りの枝は樹皮がはげ、朽ちていた。次に樹を 見たのは、1871 年と1875 年であるがその時、 樹は完全に弱っていて、その少し後の1876 年の 嵐によって唯一残っていた樹の部分も西側の壁 の上に倒れてしまった。そして古の菩提樹は枯 れてしまった。だが、沢山の種が採取され、若 い子孫(young scions と複数形になっている)が すでにその場所に生えていた。」と。

ところで、「現在生えている菩提樹がそこに生 えていた幼木が大きく育ったものか?」と問わ れると困ってしまう。なぜなら、カニンガムが 発掘調査した時、大菩提寺は長い年月の間に、 損壊だけでなく、修復、あるいは破壊を避ける ためであろうと考えられる造作が加えられてい た。一例をあげれば、大塔の西側すなわち菩提 樹側は、32 フィート(9.6 メートル)の長さで、 高さ30 フィート(9 メートル)、厚さ14 フィー ト(4.2 メートル)の巨大な壁で覆われていた。 発掘が進むにつれて分かったことだが、大塔の 菩提樹側の壁には如来像を中心に13 箇の仏像を 安置している龕(がん)があるのだが、両端の 各々2 箇所をのぞいて全て巨大な壁で覆い隠さ れていたのである。発掘調査はこれらの壁を取 り除きながら、あるいは土を掘り起こしながら 進められており、発掘調査時の写真をみると瓦 礫の山である(写真3)。それ故、別の場所に一 時的にも移植させなければ、この場所で幼木が 生き残ったとは考えられない。

写真3

写真3.カニンガムによる大菩提寺発掘調査時の大塔西側(菩提樹側)の写真。壁面の大部分が厚い壁でおお われている。調査にともない付加建造物が一部除去されている。写真の右側壁面の大きなくぼみが菩提 樹の場所と考えられる。菩提樹は不明。カニンガムの発掘調査報告書、文献5 より転載。

このことに関して、T.C マジュプリア著(西 岡直樹訳)「ネパール・インドの聖なる植物」 では、「現在のもの(菩提樹)は1885 年に植え られたものだと伝えられている。」と記載し、 今年(2007 年)訪問した京都府立植物園に植 えられている菩提樹も「当時現地で植えられて いたインドボダイジュは枯れてしまい、現在の ものは1885 年植え替えられたものです。本個 体は、1885 年に植えられたインドボダイジュ からの実生を育てたものです。」と記載されていた。また、中村元編著「新編ブッダの世界」 には「現在の樹は1876 年に嵐のために倒れた 古木の根から芽をふいたものである。」と記載 し、正法寺のホームページに載っている「フォ ートギャラリー・天竺紀行」の記述でも、現在 の菩提樹は、“1876 年嵐でたおれた古木の根か ら芽をだしたもの”と記述している。

菩提樹が枯れた時期や植樹した時期の記載に 1874 年、1876 年、1885 年など異なった年代に なっているのは、カニンガムらによる膨大な発掘 調査が終了し、構内が整備された時、現在地に 「古木の根から生じた幼木」または「近くに生え ていた幼木」が移植されたためではなかろうかと 筆者は考えている。一方「現在の菩提樹はスリ ランカのアヌラーダプラからの分け樹を移植した ものである(2003 年4 月放送:世界・ふしぎ発 見、スリランカ編)。」との報告もある。

現時点では、これらの報告の内どちらが正し いか、判断するための正確かつ確実な文献を入 手していないが、今年(2007 年)7 月、インド のナグプールで愛知県一宮市の惠林寺住職関口 道潤老師がインド在住の佐々井秀嶺長老に面談 した際、佐々井長老は「今のブッダガヤの菩提 樹は直接の子孫ではないのです。」と言明してい る(惠林寺住職関口道潤著「ナグプールに見る 仏教の現実」)。このことは、はからずも1876 年 に先代のブッダガヤの菩提樹が枯れた後、「現在 同地に生えている菩提樹は釈迦成道の菩提樹の 直系の樹であるスリランカの菩提樹から分け樹 が移植されたものではない。」ことを物語ってい る。佐々井長老は1967 年8 月に渡印して以来 40 年間一度も帰国することなくインドに滞在し、 仏教の布教とヒンズー教徒の仏教徒への改宗運 動に全精力とささげ、現在インド仏教徒の一大 指導者になっている。また長い間ヒンズー教徒 の管理下におかれてきた大菩提寺を仏教徒へ奪 還する運動の先頭にたってきた方である。

また、ブッダガヤの菩提樹に関して、インド 大菩提協会が2000年に発行した「Dharmadoot」 の中に1903 年7 月発行の「Maha Bodhi Journal」 の文章を引用しているのだが、その中で「When this original tree was destroyed in the year 1874,a new plant grew in its place、and it is the sacred Bo-tree now extant at the shrine of Buddha Gaya. 初代の樹が1874 年に枯れた時、 その場所に一本の新しい樹が育った。それが今 ブッダガヤの寺院にある聖なる菩提樹である。」 との記述がある。この記述を素直に読めば、「先 代の菩提樹が生えていた場所にその場所ないし、 近くに生えていた新しい幼木が育った。」と考え るのが自然ではなかろうか。

6.菩提樹贈呈式当時の現地ガイドの説明は正 確か?

2003 年7 月、私達がインド大菩提協会サラナ トセンターからの菩提樹贈呈式に参加するため、 インドを訪問した時、現地ガイドからブッダガ ヤの菩提樹に関して次のような説明をうけた。

1)初代のブッダガヤの菩提樹がアショーカ王 妃の指図で切られ、枯れた。

2)その後スリランカからの苗木を移植した2 代目の菩提樹が紀元前1 世紀に枯れ、

3)その後に生えた3 代目の菩提樹が紀元5 世 紀に枯れ、

4)その後に生えた4 代目の菩提樹が紀元12 世 紀末〜 13 世紀にイスラム教徒による仏教弾 圧の際ブッダガヤの大塔とともに破壊され た、と。

このガイドの説明の内、1)、4)に関しては、 古代文献やその他の資料から確認または推測で きるが、2)、3)の項目については現在のとこ ろこれを裏づける資料を入手していない。ま た、ガイドの説明には紀元7 世紀はじめに起こ ったシャシャーンカ王の菩提樹伐採事件の説明 がなかったのは意外である。いずれにしても12 世紀末から13 世紀初頭にイスラム教徒がイン ドに侵攻した後19 世紀までの600 年間菩提樹 がどのような運命をたどったか不明である。

7.スリランカの菩提樹

インドにはその宗教的、哲学的思考に基づく のか、あるいは特異な自然の環境によるのか、不思議なくらい古代の歴史書がない。そのた め、インドの歴史を研究する人々は磨崖や石柱 に刻まれた碑文、古代の貨幣や彫刻、あるいは 中国僧・玄奘三蔵などの旅行記などをもとに研 究している状態である。このことは仏教研究に 関しても例外ではない。

そのかわり、インド国内にまつわる古代仏教 史を隣国・スリランカの歴史書のなかにみるこ とができる。スリランカの古代歴史書「マハ ー・ヴァンサ(大史)」がそれで、その内容は ほとんど全てがインドとスリランカの古代仏教 史である。この歴史書のなかにアショーカ王の 時代にブッダガヤの菩提樹の分け樹がスリラン カ王に贈呈されたことが記録されている。興味 深い事実をこの歴史書にみてみよう。

アショーカ王は仏教に帰依した後、各地の磨崖 や石柱に有名なアショーカ碑文を残すなど熱心に 布教活動をしているが、スリランカにも息子(一 説には西インドの高僧)マヒンダを派遣し、当時 のスリランカのデーワナンピヤ・ティッサ王(紀 元前260 年〜 210 年)を仏教に帰依させている。 マヒンダは、菩提樹の分け樹を貰い受けること と、王の末弟の副王マハーナガの妃アヌラを出家 させるため、アショーカ王の娘サンガミッタ妃を スリランカに招くことを王に進言している。

これらの要請を受けたアショーカ王がブッダ ガヤの菩提樹の南枝を採り、スリランカに送り 出す際の模様を先の「マハー・ヴァンサ(大 史)」の中には感慨をこめて、次のように記載 されている。

「『余は3 度大菩提樹に王国を捧げて供養し た。それと同じように余の友なる王もまた王国 を捧げて供養するであろう。』と。これを言って 大王は岸辺に合掌して立ち、去り行く大菩提樹 を眺めて涙を浮かべた。『おゝ、かの十力者の大 菩提樹は、光網を放ちながら去ってゆく、呼々。』 と。大菩提樹に別れて、悲しみに充ちた法阿育 (アショーカ)は嘆き悲しみ泣いて自分の都に帰 った(第19 章)。」(平松友嗣訳注)と。

サンガミッタに先導された菩提樹はその後海 路スリランカに運ばれ、スリランカの北の港・ ダンバコラ(Dambakola)でデーワナンピヤ・ ティッサ王に渡され、その後当時の王都・アヌ ラーダプラに運ばれ植樹された。その樹(の末 裔)はスリー・マハー菩提樹(Suri Maha Bodhi Tree)と呼ばれ、世界遺産に登録されている。

ところで、スリランカでは「この菩提樹は紀 元前3 世紀(紀元前288 年という説もあるが、 アショーカ王やデーワナンピヤ・ティッサ王の 時代とずれがある)に移植された菩提樹が育っ たもの」との説明をうけたが、樹の寿命を考え ると、実際は何度か植え替えられたものであろ う。今回、そう確信させる古文書の記録を見つ けることができた。

法顕は玄奘三蔵が西域を訪ずれた7 世紀(西 暦629 年から645 年)より200 年以上前の西 暦399 年から412 年にかけてインドとスリラン カを訪問し、最後の2 年間(410 年と411 年) スリランカに滞在している。法顕は滞在中にこ の菩提樹を見て、「高さがおよそ20 丈もある。」 と旅行記「法顕伝、第5 章」の中で報告してい る。20 丈といえば、約60 メートルの高さの巨 木であるが、私達がスリランカを訪問した 2002 年9 月に見た菩提樹は細い幹が横に傾い た弱々しい樹であった(写真4)。

しかし、ブッダガヤの菩提樹が長い歴史のな かで、度々危害が加えられ、新たに植え継が れ、途中経過が不明な時期がある樹であるのに たいし、アヌラーダプラの菩提樹はブッダ(釈 迦)成道の菩提樹の直系が植え継がれたものと 考えられている。この樹の分け樹が、ブッダが悟りを開いた後、初めて説法した仏教発祥(初 転法輪)の地であるインドのサールナート(鹿 野苑)に1931 年ムラガンダ・クティ寺院が建 立された際移植され、さらにサールナートの菩 提樹の分け樹が2003 年7 月19 日、2300 年ぶ りにインド大菩提協会による公式の式典を経て インド国外である沖縄に贈呈されたのである (写真5、6)。(2007 年11 月記)

写真4

写真4.スリランカのアヌラーダプラにある「聖なる菩提樹」。 沢山のささえ棒が立てられている斜めに傾いている弱々 しい左側の樹がそれで、世界遺産に登録されている (2002 年9 月撮影)。

写真5

写真5.インド大菩薩協会による「聖なる菩提樹贈呈式」を報じたインドの新聞記事。

写真6

写真6.2007 年6 月23 日慰霊の日の沖縄菩提樹苑。2006 年 にインドから持ち帰った沙羅双樹と無憂樹の苗木も展示 している。沙羅双樹は沖縄では初公開。

参考文献
1.長嶺信夫:沖縄に来た聖なる菩提樹の歴史、沖縄県医 師会報、Vol.39、No.10 〜 11、2003 年
2.長嶺信夫:聖なる菩提樹贈呈の経緯とその記録、沖縄 県医師会報、Vol.39、No.12、2003 年
3.長嶺信夫:ブッダゆかりの「聖なる菩提樹」、沖縄県 医師会報、Vol.39、No4 〜 5、2003 年
4.長嶺信夫:下着と一緒に入れないでください**菩提 樹騒動記**、沖縄県医師会報、Vol.41、No.4,2005 年
5.長嶺信夫:腹を切らずにすんだ話〜さまよい歩いた聖 なる菩提樹〜、沖縄県医師会報、Vol.41、No.7,2005 年
6.小西・岩瀬編:図説インド歴史散歩、河出書房新社、 1995 年
7.玄奘著 水谷真成訳注:大唐西域記、第8 巻、平凡社、 1999 年
8. 法顕著 長沢和俊訳注:法顕伝・宋雲行紀、平凡社、 1997 年
9. 平松友嗣訳注:マハー・ヴァンサ(大史),冨山房、 1990 年 
10.A.Cunningham : MahaBodhi orThe great buddist temple under the Bodhi tree at Buddhagaya,London, 1892、(Indological Book House 版)
11.T.C.マジュプリア著 西岡直樹訳:ネパール・イン ドの聖なる植物、八坂書房、1996 年
12.中村元編著:新編ブッダの世界、学研、2000 年
13.関口道潤:沸跡巡拝続編 ナグプールに見る仏教の 現実、惠林寺、非売品、2007 年
14.Maha Bodhi society of India 編: The Sacred Bodhi Tree in Sarnath “ The Tree of Enlightenment ” Dharmadoot 2000 年