沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 2月号

古文書に見る「聖なる菩提樹」の歴史(前編)

長嶺信夫

長嶺胃腸科内科外科医院
長嶺 信夫

1.はじめに

インドのブッダガヤには2500 年前ブッダ (御釈迦様)がその樹の下で悟りを開いたとい われている「聖なる菩提樹」の末裔があり、現 在マハー・ボディー寺院(大菩提寺)とともに 世界遺産に登録されている(写真1、2)。

菩提樹の歴史に関して、筆者はインド大菩提 協会サラナトセンターから菩提樹の分け樹を贈 呈された後、沖縄県医師会報にかなり詳しく報 告したが、釈迦成道の地であるブッダガヤの菩 提樹についてはより詳しく知りたいと思い、調 査を続けてきた。

この菩提樹は釈迦入滅後多くの試練にあって いる。今回手元の資料をもとにその盛衰を記し てみることにした。

釈迦入滅後の紀元前3 世紀、アショーカ王(在位紀元前268 〜 232 頃)が、古代インド・マ ガダ国マウリア王朝3 代目の王として即位した。 王はその後カリンガ国に遠征し、大苦戦の末に のべ10 万人が死に、15 万人が捕虜となり、それ に数倍する人々が戦禍を受けたというカリンガ 戦争を経験している。王は戦争の悲惨さに深く 後悔し、戦争の勝利よりも法(仏教によるダル マDharma、全世界の普遍的な理法と道徳)の勝 利を信じ、その後熱心な仏教徒になっている (大西・岩瀬編:図説インド歴史散歩)。

写真1

写真1.ブッダガヤの大菩提寺・大塔横に立つ「聖なる菩提 樹」。樹齢約130 年。柵の中に金剛法座がある(2003 年7 月撮影)。

写真2

写真2.菩提樹の樹根と金剛法座。大塔の壁面には如来像を中 心に13 個の仏像が安置されている(2003 年7 月撮影)。

2.「大唐西域記」の記録にみる菩提樹の盛衰

古の菩提樹に関して詳細に記録されたものに西 暦629 年から645 年にかけ西域(インド、中央ア ジア)を訪問した玄奘三蔵の「大唐西域記」があ る。玄奘三蔵は西暦637 年に大菩提寺を訪れてい るのだが、その中に「昔、仏の在世中には(菩提 樹は)高さ数百尺であったが、しばしば伐採され てもなお高さ4、5 丈ある。」と記載し、それに続 いて、菩提樹の受難の記録がある。少し長くなる が水谷真成訳注の大唐西域記から転載する。

「如来寂滅のあと、無憂王(アショーカ王) が初め即位した時には邪道を信仰し仏の遺跡を 破壊した。軍隊を動かし自ら臨んで菩提樹を伐 採し、これを寸断してその西数十歩の所に積み 上げ、事火婆羅門にこれを焼いて天を祀らせた。 煙や炎がまだ静まらないうちに2 本の樹が生え だし、猛火の中で葉を茂らせ緑を含ませた。無 憂王はこの異変を見て自らの過ちを後悔し、香乳を残りの根にそそぎかけたところ、翌朝にな ると樹はもとのように生えていた。王はこの不思 議なでき事を見て重ねて深く喜び、自ら供養を 修し、楽しんで帰ることを忘れるほどであった。

王妃はもともと外道を信じた人で、こっそり 人を遣わし、夜半過ぎに重ねてその樹を切らせ た。無憂王は朝方に礼拝しようとすると唯切り 株だけであったので非常に悲嘆した。そこで心 をこめて祈請し香乳を灌ぎかけたところ、日な らずしてもとのように生えてきた。王は深く心 を打たれ、石を積み上げて垣を周らした。その 高さ十余尺で、今もなお存在している(第8 巻 6 ・3)。」と記載している。アショーカ王妃が 菩提樹を切り倒させたことは中国僧の「法顕 伝、第4 章」にも記載され、アショーカ王妃が 王の不在の時にこの菩提樹を切り倒させたが、 アショーカ王が牛乳を多くかけさせたので樹が 再生した、という。

また、玄奘三蔵が西暦637 年に菩提樹を訪問 する少し前に、シャシャーンカ王が菩提樹を伐 採させた時の様子を「近ごろ、設賞迦王(シャ シャーンカ)王と言う人が外道を信仰し、仏教 を排斥し僧伽藍を破壊した。この菩提樹を切り、 根もとを掘って水脈の所まで至ったが、根を掘 り尽くせなかった。そこで、火を放って焼き、 甘庶の汁をかけ、その根を爛れさせ、残りの芽 を根絶してしまおうとした。数ヶ月の後にマガ ダ国の補刺拏伐摩王(プール・ナヴァルマン王) がこの人は無憂王の末孫であるが、この話を聞 き、『仏陀がすでにこの世を去られ、唯仏の樹を 残すだけであったが、今さらにこの樹も切られ てしまったら、衆生は何を見たらよいのだろう か』と嘆き、体ごと地面に投げ出し悲しんだが、 その悲しみの心は物をも感じ動かすほどであっ た。そこで数千頭の牛の乳をしぼりそそいだと ころ、一夜過ぎると樹が生え、その高さ一丈余 りになっていた。後の人が伐採するのを心配し て、周囲を石垣の高さ二丈四尺のもので取り巻 いた。それで今の菩提樹は石の壁の中に隠れ、 一丈余だけが上にでているのである(大唐西域 記、第8 巻6 ・3、水谷真成訳注)。」と。

このシャシャーンカ王による菩提樹伐採事件 は西暦7 世紀初頭に起こったといわれており、 その後、シャシャーンカ王がハルサ・ヴァルダ ナ王(戒日王、Harsha Vardhana 王)によっ て滅ぼされた後の紀元600 ないし620 年頃、プ ール・ナヴァルマン王(Purna Varma 王)によ って再建・植樹された。再建・植樹は元の地盤 に25 フィート(8 メートル余)の高さまで盛土 して、その周りに石垣で塀を築き、その上に菩 提樹を植えたと考えられている。

3.スリランカの歴史書「マハー・ヴァンサ (大史)」の記録

「大唐西域記」の記録は中国の“白髪三千丈” の表現にみるように極めてオーバーな表現であ るが、アショーカ王などが菩提樹を伐採したの は歴史的事実のようで、西暦5 世紀に編纂され たスリランカの歴史書、「マハー・ヴァンサ(大 史)」にも、アショーカ王が仏教にあまりにも熱 心で王妃をかえりみないのを嫉妬して王妃が菩 提樹を枯れ死させた様子が記載されている。

その中には「かの容色を誇りとする愚かな者 は、『この王は、妾よりも大菩提樹の方を崇め られる』と怒りの力に引きずられ害心を抱き、 マンドゥ樹の刺の方法を以て、大菩提樹を枯死 せしめた(第20 章)。」と記載されている(平 松友嗣訳注)。ここに用いられているマンドゥ 樹の刺はこれを刺せば植物は枯死すると信じら れているという。

ところで、これら古文書の記載ではいとも簡単 に樹が再生している。しかし、このことは必ずし も誇張ではない。育ててみてわかることだが、イ ンドボダイジュは生育が極めて旺盛な樹で、幹を 切断してもその場所から容易に芽がでる。鉢に植 えた菩提樹の植え替えをした時、鉢の底の水抜き 穴からでた根を切り取り放置していた残根(根 先)からも新たに芽が出てきたのには驚かされ た。従って、アショーカ王や王妃、シャシャーン カ王の指図で切り倒された菩提樹の切株や残根か ら樹が再生したことは十分考えられる。

4.イギリスの考古学者カニンガムの記録によ る菩提樹

このように釈迦入滅後、菩提樹は度々伐採さ れ、その都度再生し、または植えつがれてきて いるが、イギリスの考古学者カニンガム (Alexander Cunningham)が書いたブッダガヤ のマハー・ボディー寺院(大菩提寺)の発掘調 査報告書のなかにも菩提樹の受難の記録がある。

カニンガムは、1880 年にブッダガヤの寺院遺 跡を発掘していた時、露出した状態で発見された 金剛法座のすぐ西側の土を掘り起こし、現在の菩 提樹が立っている位置より30 フィート(9 メー トル)下の砂質土壌の中から菩提樹の二つの木片 遺物を発見、この場所の上に建っている寺院後方 の大きな「ささえ壁」が12 世紀以降のものであ ることから、この木片遺物が西暦600 ないし620 年頃シャシャーンカ王によって伐採された菩提樹 の一部である可能性が高いと報告している。

興味深いのは、現在の菩提樹は金剛法座の外 側(西側)に生えているが、発掘時の図面をみ ると、菩提樹は金剛法座の内側で大塔のテラス から金剛法座の上を外に向かってはえている (図1)。余談になるがアショーカ王が最初に大 菩提寺を建てた時は金剛法座と菩提樹を中心に して、その周りに柱を建てた開放的なパヴィリ オンだったようで、その後、法座と菩提樹が寺 院の中から外に移動されたといわれている。

また、菩提樹に対する危害に関しては、シャ シャーンカ王の事件以外にも、「紀元1 世紀に インド西部のHunimanta 王がマガダ国に侵攻 し、寺院を破壊したというTaranath の記録が あるが、その時、菩提樹も破壊をまぬがれるこ とはできなかったであろう。」と記載している。 また一般には12 世紀末から13 世紀初頭にかけ て、イスラム教徒の侵攻の際、寺院とともに菩 提樹にも危害が加えられたにちがいないと言わ れているが、カニンガムは「イスラム教徒がペ シャワールで有名な樹に危害を加えなかったの で、聖なる菩提樹には危害を加えなかった可能 性もある。」と記している。

その一方、「菩提樹は生長が早く、寿命が短 い樹なので、種から生えた新鮮な樹によって、 アショーカ王の時代から現在に至るまで、12 回、15 回、いや20 回にもわたって植え継がれ たにちがいない。」とも述べている。

後編は会報3 月号へ掲載します。

図1

図1.発掘調査時の大菩提寺の模式図の菩提樹側部分。E,F,H は大塔の後壁(菩提樹側)に追加建造された巨大なささえ壁、 V2 は金剛法座、N と黒ぬりの壁(G)は外壁中央の如来像を隠すため設置された壁。菩提樹が大塔のテラスから金剛法 座の上を外にのびている。現在はこれらの付加建造物はすべて撤去されている。文献5 の図から部分転載。