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英国湖水地方紀行
−ナショナル・トラスト 誕生に思いを馳せて−

中山良有

中山外科胃腸科医院
中山 良有

表紙の写真は英国で最も自然が美しい所とされ ている湖水地方の5 月の風景のひとこまである。

詩人のワーズワースが終生詩作に耽けり、絵 本作家ビアトリクス・ポターのピーター・ラビ ット物語の舞台になったところである。

マンチェスターの少し北方、スコットランドに 近いところにあり、緯度は樺太のほぼ北端に位 置するが、西側と南側はアイリッシュ海に面し、 偏西風と暖流の影響で気候は比較的温暖という。 日焼けする位日差しは強いが、ウインダミア湖 遊覧船上の風は冷たくウインドブレーカーが必 要であった。美しい大小の氷河湖が多数(約16) 散在し、水辺では白鳥や鴨などの水鳥たちが 悠々と泳ぎ、そして空を乱舞している。ヒトが 近づいても逃げようとしない。ツアー仲間の女 性たちはガイドからもらった餌を鳥たちにやって 喜んでいる。すべての動植物が大自然とともに 共生しているのだ。歩道の縁や湖畔には色とり どりのチューリップや名も知らない草花が競い 合うように咲き乱れている。ワーズワースは詩情 豊かなこの地で生まれ、ケンブリッジ大学遊学 中以外はほとんどの生涯をこの地で過ごし、桂 冠詩人にまで登りつめたのち、この地で亡くな った。ワーズワースが晩年をすごしたダイダル・ マウントの居間や書斎が当時のまま残されてお り約200 年まえのワーズワースの生活が偲ばれ た。ピーターラビットの舞台になったヒルトップ 農場は5 月の陽光をいっぱいにあびた木々の花 が咲き誇り、草花が生い茂っていた。草むらか ら今にも絵本の主人公の小動物たちが飛び出し てきそうな雰囲気だ。最近の映画「ミス・ポタ ー」でもビアトリクス・ポターの生涯や湖水地 方が紹介された。“英国にはヒルはあるが、マウ ンテンはない”と言われているように、スイスや オーストリアのような高い山はまったく見られな い。少し高い山も地層が岩盤のため樹木は生育 せずやや荒涼としている。なだらか緑の丘陵が 幾重にも重なって果てしなく遠くまでよく見渡 せる。時々黄色の菜の花畑が車窓いっぱいに目 の前を遮るが、緑の芝生に覆われたゴルフ場の ような牧場が延々とどこまでも続き、牛や羊、 馬たちがのんびりと草を食んでいる。牧場の境 界を表す石垣がまるでミニチュア万里の長城の ように縦横にはるか頂上まで伸びている。目障 りな看板や電信柱、商業施設は特定の限られた 場所以外ではほとんどみられない。この地方は 大昔は「ヒースの咲く荒れた土地で、恐ろしい ところ」だったらしい。このような荒野が今のよ うな美しい緑豊かな田園風景になったのは幾世 紀にもわたって人知という鍬で根気よく開墾し、 そして開発という自然破壊から守ったから存在 するのだという。

湖水地方のこのようなすばらしい自然を環境 破壊から保護できたのは、幾人かの先見性のあ る賢人たちの献身的な努力があったからだとい うことを今回の旅行で始めて知った。産業革命 後の英国にあって、開発の波がこの地方にも及 ぼうとしたとき、ワーズワースや有名な芸術評 論家ジョン・ラスキンらはこの湖水地方の開発 と都市化に猛烈に反対した。後年、「自然は人 と共存し、人間の心を癒すもの」というワーズ ワースの自然観に啓発された弁護士のロバー ト・ハンター、建築家のオクタヴィア・ヒル、 牧師のハードウィック・ローンズリィの3 人が 「ナショナル・トラスト」という民間の環境保 護団体を創立(1895 年)する。ナショナル・ トラストは次世代にあるがままの自然を残すに は、「土地を買い取り、所有するのが最もよい」 の理念のもとに景勝地や歴史的建造物、庭園、 森林、村落などを市民の寄付や寄贈によって 次々と取得していった。この湖水地方はほとん どが国立公園であるが、1/4 はナショナル・ト ラストが所有していてかたくなまでにあるがま まの自然を残そうと努力している。

今では英国ナシヨナル・トラストは沖縄県全 土よりやや広い2,500K uの土地、約1,120Km におよぶ自然のままの海岸線、1,000 棟の歴史 的建造物などを取得して自然を保護し、文化遺 産を後世に残すのに貢献している。350 万人の 会員と、年間4 万人以上に及ぶボランテイアの 協力を中心に運営されている。英国政府もナシ ョナル・トラスト法を制定して保護資産の非課 税など多くの特権を与え保護している。この理 念はやがて世界に広まり、ユネスコの「世界遺 産」に継承されていくのである。湖水地方は自 然保護運動の聖地として長く人々の記憶に残る だろう。日本ナショナル・トラストも存在する が、英国ほどの活動はしていない。沖縄の経済 発展のためにはある程度の自然破壊はやむをえ ないとしても、どのあたりでバランスをとるか、 そろそろ県人の深い思慮と毅然たる行動が求め られていると思われる。

最後にナショナル・トラストを日本に初めて (1965 年)紹介した作家大佛次郎の無思慮な景 観破壊を戒めた言葉を紹介する。「過去に対す る郷愁や未練によるものではなく、将来の日本 人の美意識と品位のためである」。

ウインダミア湖

ウインダミア湖

ワーズワースの住居

ワーズワースの住居

広大な田園風景

広大な田園風景



参考文献
「英国ナショナル・トラスト紀行」(小野まり)
「ナショトラ・キーワード辞典」(日本ナショナル・トラスト協会)