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「予兆を見逃すな」

棚田文雄

仁愛会在宅総合センター長(浦添総合病院併設)
棚田 文雄

先月、高齢者認知症の研修会が東京であり、 日ごろの勉強不足を補おうと、東京へ出かけ た。普段から、一生に一度は、忠臣蔵で有名な 泉岳寺へ行ってお墓参りをしようと思っていた ので、ちょうど良い機会と思い、東京に着いた その足で、泉岳寺に行った。内地では、毎年12 月14日には必ず忠臣蔵の映画をテレビで放送 する。私は何回も見たがそのたびに、なぜかい つも感動してしまう。主役が片岡千恵蔵、長谷 川一夫、里見浩太郎、江守徹、松平健等々すべ て見たような気がする。

五反田から浅草線に乗り換え、泉岳寺駅で降 りると、夕暮れ近くなっていた。人の気配はほ とんど無く、幸い門はまだ開いていた、やっと 念願が叶ったなと感慨にふけった。門をくぐる と、左手に石畳があり、石畳を進むと、首洗い の井戸があった。首洗いの井戸からさらに十歩 ほど石畳を進むと、誰よりも立派な浅野内匠頭 のお墓があった、その横に大石内蔵助を筆頭に 赤穂浪士の墓がロの字に並んでいた。この墓前 で吉良上野介の首を奉納し、主君に、咽びなき ながら、あだ討ちの報告をしたのであろう。念願の墓参りを終えて、帰り道、ふいと主君浅野 内匠頭と大石内蔵助の二人の生き方を比較して みたくなった。浅野内匠頭の辞世の句「風さそ う、花よりもなほ我はまた春の名残をい かにとやせん」と辞世の句にはまだ、この世 に対して未練と強い迷いが感じられる、35 歳 で人生を終えるには、あまりにも痛ましい限り である。一方大石内蔵助の辞世の句 「あら楽 し思いは晴るる身は捨つる浮き世の月に かかる雲なし」大事を成し遂げ、武士の面目を 保ち、晴れ晴れとした達成感が満ち溢れてい る。現代に置き換えて学ぶとしたら、企業や、 組織のトップである人は、どんな理由があろう とも、短気を起こしては決していけない、どん なに辛かろうが決して激高して松の廊下で、刀 を抜いてはいけないのである。トップたる者は 常に冷静に沈着に、状況を見極め、確かな目標 に向かって粛々と果敢に、達成すべく行動しろ と、「忠臣蔵」は教えているように私には思え てならない。

私は東京の研修を終えて、いつもの仕事場に 戻った。時々、施設で高齢者を診察したりす る。ある日の昼下がり、施設の食堂で利用者も スタッフもくつろいで、休んでいたとき、突 然、ある80代の認知症のおじいさんが叫んだ。 「敵が来た、弾が飛んでくる、撃たれるぞ、伏 せろ!伏せろ!」我々スタッフは、一斉に机の 下に身を隠した。このおじいさんは、時々62年 前の沖縄戦の辛い恐怖に満ちた過去の記憶が突 如、噴火するのだ。我々スタッフは噴火が治ま るまで、彼と行動を共にしなければならない。 彼の脳裏に刻まれた深く悲しい体験を思うと涙 せずにはいられない。私は、愛知県で育った。 小学生のころ、貧しい我が家には娯楽といえ ば、家族で、映画を見に行くことだった。その とき偶々、アメリカ軍が写していた、沖縄戦の 記録映画を見た。摩文仁の崖から、次々と住民 が投身するシーンと特攻隊機が次々とアメリカ 艦船に体当たりする衝撃的で、惨状きわまりな い記録映画であった。それ以来、あの認知症の おじいさんと同じように、私の脳裏に深く深く そのシーンは刻まれた。大学病院で外科医とし て勤務していた私は、昭和55年7月、妻の故郷 である沖縄に一家で移り住んだ。沖縄に住んで 以来、私は、毎年欠かさず、正月元旦の初日の 出には、必ず、摩文仁に行って祈っている、も う28年間続いている。雨が降ろうが、風が吹こ うが必ず、家族全員で出かけている。私にとっ て、沖縄の新年は、沖縄戦で亡くなった幾多の 御霊の慰霊なくして、決して始まらないのであ る。特攻隊員を、沖縄住民の人々を赤穂浪士 を、そこまで悲惨な状況に、追いやったのは何 なのか?ある特攻隊員の日記の一行にこう書か れている、「俺たちの苦しみとか死が、俺たち の父や母や弟妹たち、愛する人たちの幸福のた めに、たとえわずかでも役立つものなら、、、」 死ぬ意味をこの一行に込めている。なんと気高 く、又なんと悲しいことか。62 年前このよう な事実があったことを同じ日本人としていつま でも心にとどめて置きたい。彼らも、もし生ま れ変われるものなら、戦争のない平和な国に生 まれ変わりたいと切に思ったであろう。こう考 えると、彼らをそこまで追いやる前に防ぐ事は できなかったのか?歴史を振り返ると、戦争に 至る前に必ず何気ない、小さな予兆がある、重 篤な患者に、重篤になる前に必ずその予兆があ るように。どんな小さな予兆も見逃さず、早く 手を打つことしか予防ができない。一旦大きな 流れになったらもう誰も止められないのだ。62 年前の太平洋戦争がそれを教えている。今回、 沖縄の教科書問題もその予兆かもしれないと私 は思い、9月29日、宜野湾海浜公園で、おじい さん、おばあさん達と一緒に拳を沖縄の青空に 向けて挙げた。戦争体験から出るその決意と確 信は顔に滲み出ていた。おじいさん、おばあさ んの拳を挙げたその姿は、私にとって、健全で 美しい邦、沖縄だ!!