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さわやかシックス

仲地広美智

宜野湾記念病院外科 仲地 広美智

本土から見渡せば沖縄本島も離島であり、そ のさらに離島の伊良部島、そこが私の故郷であ る。子供の頃は、道路で遊び、馬に蹴られるこ とはあっても、車に轢かれることはまずなかっ た。島全体が自然公園のようで、至るところが 遊び場であった。自宅から数分歩けば、海水浴 ができる佐和田の浜(日本の渚100選に認定さ れている)があり、車で15分も走れば通り池 (ダイビングスポットとして有名です)があり、 さらに15分もすれば、裸足で歩いても痛みをか 感じることの無い極め細かな砂浜が広がる渡久 地の浜がある。豊かな自然に満ちあふれ、貧し くても島人の顔は常に笑顔に満ちあふれてい た。しかし、この伊良部島も段々と過疎化が進 み、私が小中学生の頃は1万人位住んでいたが、 現在の人口は7,000人位である。当時4つあっ たクラスもだんだん減少し、現在では学年で1 クラスとなってしまった。昔からバレーボール が大変盛んな島で(小生もバレー愛好家の一人 で、一応中学から大学までバレーボール一筋で した。「今の私の体型からは想像できない」カ ミさんと子供二人の談)。前置きはこれくらい にしてそろそろ本題に入るが、この小さな伊良 部島にある伊良部高校が、バレーボールの名門 であることは沖縄全島では広く知れ渡ってい る。全県の大会を何度も制覇し全国大会出場を 何度も果たしている。さて、第38回バレーボー ル全国高校選抜優勝大会沖縄地区予選の大会最 終日、男子の決勝は平成19年2月12日に那覇市 民体育館で行われた。伊良部高校と西原高校が 決勝戦で戦い、西原高校が3―0で伊良部を下 し2年連続16度目の優勝を果たした。新聞紙上 では「西原貫禄」だの「エース故障補う組織 力」だので、主役は当然西原高校であった。し かし、私の目には、伊良部出身という欲目があ ったかも知れないが、この試合での本当の主役 は伊良部高校の6人の選手であった。たった6 人の部員で全試合を戦って来たという事実に、 バレーボールファンに限らず、多くの人々が感 動し勇気づけられたと思うからである。ご存知 のようにバレーボールは6人対6人で戦うスポ ーツであるが、レギュラー選手として12人を登 録することが出来る。当然、調子の悪い選手、 レシーブ、サーブ、アタック、ブロック等の 各々の技術が高い選手を戦況に応じて使い分け ることが可能である。しかし伊良部高校は6人 のみの登録選手で本大会の全試合を戦い抜い た。もし1人でも捻挫、打撲あるいは怪我でな くてもインフルエンザなどの病気に罹患すれ ば、交代要員がいないため戦うことが出来なく なる。実際は、大会期間中に体調不良の選手も いたのではないかと推察している。この試合の 解説の特別ゲストとして招待されていた大古誠 司氏(1972 年ミュンヘン五輪金メダリスト) も、この点で伊良部高校を絶賛していた。バレ ーボールに限らず団体スポーツの基本はチーム ワークであることは言うまでもない。6人の選 手の中には、本人、家庭の事情で部活を辞めた いと考えたりする者もいたのではないだろう か。あるいは意見、価値観の相異から部員同士 で何度も衝突があったのではないだろうか。6 人のみということは、実戦形式の練習(いわゆ る紅白戦)が出来ないということになる。様々 な苦労があったと思われるが、最低人数で全試合 を戦った選手諸君と、選手の体調管理に万全を 尽くした伊良部高校の監督さんには頭が下がる。

さて、高校野球ファンなら誰でも記憶にある と思うが、1974年春の甲子園(第46回大会) に出場した池田高校は、メンバーが11人という 何とかゲームが出来る人数であった(ちなみに 当時はベンチ入り出来る登録選手は14人であ った)。怪我人や病人さえ出せない状況のなか で、チームが一丸となってプレーする姿は、多 くの高校野球ファンに感動を与えた。決勝戦で は惜しくも地元の報徳学園に1−3で惜敗した が、その試合で池田のプレーに地元の報徳学園 よりも大きな拍手があったことを今でも鮮明に 覚えている。この11人全員が一丸となってプレ ーする姿は「さわやかイレブン」と呼ばれ、甲 子園に池田旋風を巻き起した。私の記憶の中 で、33年の年月を経て、池田高校野球部と伊良 部高校バレー部が重なったため、伊良部高校バ レー部員6人を「さわやかシックス」と呼ばせ て頂くことにした。ともに高校野球、高校バレ ーの原点となるような活躍ぶりであり、観る人 にさわやかな感動をもたらした点で酷似するか らである。お金をかけて、中学の一流選手をス カウトしたり、一流高校に入学する選手が後を たたない。それは何故か。その方が、全国制覇 に限りなく近道だからである。この2つのチー ムのように地元だけの選手で頑張って勝ち上が ろうとは思わないだろうか。話は変わるが、小 生は研修医時代を山形県で過ごしたが、昭和59 年の夏の高校野球大会(第88回全国高等学校 野球選手権大会)の山形県代表は日大山形高校 であった。しかし登録選手12人の中に地元山形 出身が一人もいないという事態が発生し寄付金 の集まりが例年に較べて悪かったと聞いたこと がある。当時の選手には申し訳ないが、無理も ないことだと思う。「当然地元選手が出場を応 援する目的で寄付する」という考えを受け入れ るのは容易だからだ。地元のチームに入部し、 地元の住民に支えられながら、強くなり大舞台 に立つ。これがバレーボール、野球に限らずア マチュアスポーツの原点と思う。「さわやかイ レブン」を率いた蔦監督の池田高校での甲子園 初出場は監督就任20年と遅かった。それでも頑 張ったのは「山あいの子らに1度は大海を見せ てやりたい」との願いからだったという。伊良 部高校の監督さんも同じ気持ちだったのだろう か。小学校6年生の私の息子が好きな「メジャ ー」というNHKの人気野球アニメがある。プ ロ野球選手を父に持ち、ジャイロボール(メジ ャーリーガー:レッドソックスの松坂投手の投 げる魔球とのことで有名になったが、元々この アニメでジャイロボール人気が高まったらし い)を操る吾郎少年が、次々と弱小チームを超 一流にしていく。そして甲子園で常勝の高校に 入学するが、そこで甲子園を目指すことなく、 野球部の無い高校に移り、野球部を立ち上げ、 甲子園を目指し頑張る姿が、とても感動的であ る。伊良部高校「さわやかシックス」、池田高 校「さわやかイレブン」、「アニメメジャーの吾 郎少年」に共通するのは、「目的」に向かって 「努力」をし「夢」をあきらめないこの三点で あろう。現在は、「格差社会」「勝ち組負け組」 「虐め」など耳障りな言葉が蔓延り、今の若い 人達には厳しい時代と思われるが、彼らを見習 い頑張って欲しいと思う。最後に夢と感動を与 えてくれた伊良部高校バレー部「さわやかシッ クス」に心から有り難う。

★リレー状況
−平成16年以前掲載省略−
42.宮城茂先生(独立行政法人国立病院機構 沖縄病院)Vol. 41 No. 2
43.祝嶺千明先生(しゅくみね内科)Vol. 41 No. 3
44.宮城裕二先生(みさと耳鼻科)Vol. 41 No. 4
45.親川富憲先生(おやかわクリニック) Vol. 41 No. 6
46.折田均先生(ハートライフ病院)Vol. 41 No. 7
47.湧田森明先生(わくさん内科)Vol. 41 No.9
48.宮良球一郎先生(宮良クリニック)Vol. 41 No.10
49.蔵下要先生(浦添総合病院)Vol. 41 No.12
50.樋口大介先生(独立行政法人国立病院機構 沖縄病院)Vol. 42 No.3
51.古謝淳先生(南山病院)Vol. 42 No.5
52.城間清剛先生(城間クリニック)Vol. 42 No.7
53.野原正史先生(のはら元氣クリニック) Vol. 42 No.10
54.久貝忠男先生(沖縄県立南部医療センター・こども医療センター)Vol. 42 No.12
55.米田恵寿先生(沖縄県立宮古病院)Vol. 43 No.3