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博愛の心

米田恵寿

沖縄県立宮古病院循環器内科 米田 恵寿

日常の診療に追われ自宅と病院の往復という きわめて単純な生活に変化と学ぶ習慣を身につ けるために昨年からドイツ語を週1回学んでい る。私の生まれた旧上野村は博愛の里とも言わ れ、ドイツとゆかりの深い土地柄である。平成 8年上野ドイツ文化村が完成し、ドイツの若者 が国際交流員として派遣されドイツ語の翻訳・ 通訳としてドイツ語講座やドイツの文化の紹介 を行ない島の人々と交流を深めている。そのド イツ語講座に参加している訳である。ドイツと 宮古島市のなり染めについて文献的考察を含め て紹介したい。

今を去ること133年前の明治6年(西暦1873 年)7月9日にドイツのハンブルグ港籍の商船 R.Jロベルトソン号(全長40m、幅12m)は中 国の福州から茶を積んでオーストラリアのアレ ーデ向けに航行中、暴風に遭った。マスト2本 を失いドイツ人船員2人はマストにて打撲し死 亡、ボート2艘流失し漂流した。7月11日宮古 島市上野宮国海岸から約900m沖合の大干瀬で 座礁難破した。ロベルトソン号の遭難の近くを 航行した英国船も難破を目撃し小船を出して救 出しようとしたが危険なために救出できなかっ た。そうこうしているうちに遠見番の役人がこ れを発見し、島民がクリ舟で救助に向かったが 風波が強く船に近よれず、断念した。その夜は 一晩中陸からかがり火を焚いて船上の乗組員を 励ました。翌日、激波のなか我が身の危険も顧 みず、2艘のクリ舟をくり出して遭難船に着く ことが出来た。ロベルトソン号にある1艘のボ ートと合わせて3艘で生存者8人(ドイツ人6人 うち女性1人、中国人2人)を救出した。役人等 は在番所を彼らに提供し、役人は周囲に仮屋を 造り宿泊した。当時の島民の主食は黍であった が、彼らには一日三回、米、鶏肉、魚を含んだ 食事が与えられ手厚く介護されたようである。

ロベルトソン号船長のエドワルド・ヘルンツ ハイムの日記では遭難時の状況、島民との出会 い、島民の習慣、生活様式、食べ物、自然、儀 式、医療、宗教、産業などが、細かに記載され ている。船長エドワルド・ヘルンツハイムの日 記の中で興味深い事は、島役人は自分のことを 指しながら「Meミー Typinsanタイピンサン (太平山:宮古の古い名) men,メン youユー ?」とか 「 Drinkドリンク teaティー allオール menメン drinkドリンク teaティー .」とか片言の英語を話されたようで ある。ロベルトソン号が遭難する数年前にもイ ギリス船、フランス船も宮古近海で遭難し救助 され官船を与えられ帰国しているが、その時に 英語、フランス語を習ったようで、僅かながら もこれらの言語を解したようである。島人との 意思の疎通は、はじめは身振り手振りで困難で あったが、島人が、「 Speakスピーク 」という単語を覚 え、船長が何かに手を置いて「 Typinsanタイピンサン Speakスピーク ?」と聞くとその単語を島人が教えて、 同時に英語の表現を聞き返して、双方がその発 音をそれぞれの文字で記載して意思の疎通が可 能となったようである。また、現在でもそうで あるが、当時の宮古人はアルファベットのL音 を全く発音することができず、その替わりRと 発音したので twoトゥー menメン lostロストtwoトゥー menメン roastロースト と なってしまうなど細かな観察の記載も見られ る。エドワルド・ヘルンツハイム日誌で彼らを 感動させたのは、島民の私欲のなさであった。 上陸後の船員に対する処遇、貧しい暮らしなが らも食材の提供、医療行為に感激した船長が何 らかの謝礼を出そうとしても、島人は全く受け とらなかった。しかも、ジャンク船まで与えて 帰国に寄与するなどである。34日間の滞在が終 わり、出発の日には漲水港に島民が集まり鐘や 太鼓をたたいて見送った。役人達はくり舟を仕 立てて水先を案内し、島影の見えない所まで見 送った。三晩と四日の航海を経て無事、台湾の 基隆港に着き英国の汽船で中国へ渡りドイツに 帰国した。この島の人々は西側の文化の影響を まったく受けていないのにも関わらず、文明と 宗教が義務づける博愛の心を我々難破者に対し 当然の如く示してくれたと讃えて日記を終えて いる。

帰国後に自らの悲惨な体験を「ドイツ商船 R.Jロベルトソン号宮古島漂着記」として新聞 に公表し、これがドイツ国内で大きな反響を呼 び、時の皇帝ウイルヘルムI世の知るところと なった。感激した皇帝は宮古島に感謝の記念碑 を建立するために、救助から3年後の1876(明 治9年)、軍艦チクローブ号を派遣した。記念碑 は、ウイルヘルムI世の誕生日である3月22日、 漲水港が眼下に見えるウヤグス(親越)の地に 建てられた。これが縁で宮古島の人々はドイツ 国に深い親近感を持ち交流を深めている。最近 では2000年の沖縄で開催された主要国首脳会 議(サミット)で、会議に先立ってゲアハル ト・シュレーダードイツ首相が宮古へ訪れ交流 を深めている。2006年11月にはエドワルド・ ヘルンツハイム船長から数えて4代目の末裔に あたる骨髄移植で世界的に有名なゴスタ・ガー ルトン(スウェデンのカロリンスク大学医学部 教授)が初めて宮古島を訪問し、ロベルトソン 号を救助した住民の子孫と交流を深めている。

辞書で調べると博愛とはすべての人を広くわ けへだてなく愛することと書いている。人には だれにでも大なり小なり備わる心だと思う。マ スコミで取り上げられている学校でのいじめ問 題、夫婦や親子や兄弟間の問題、テロ、戦争な ど人と人の関係が緊張しているのが、今の世相 だとも思う。我々は先人達が示してくれた博愛 の心を今一度再認識し実践する必要がある。そ んなことを思いながら日々の診療を行なってい る今日この頃である。

★リレー状況
−平成16年以前掲載省略−
42.宮城茂先生(独立行政法人国立病院機構 沖縄病院)Vol. 41 No. 2
43.祝嶺千明先生(しゅくみね内科)Vol. 41 No. 3
44.宮城裕二先生(みさと耳鼻科)Vol. 41 No. 4
45.親川富憲先生(おやかわクリニック) Vol. 41 No. 6
46.折田均先生(ハートライフ病院)Vol. 41 No. 7
47.湧田森明先生(わくさん内科)Vol. 41 No.9
48.宮良球一郎先生(宮良クリニック)Vol. 41 No.10
49.蔵下要先生(浦添総合病院)Vol. 41 No.12
50.樋口大介先生(独立行政法人国立病院機構 沖縄病院)Vol. 42 No.3
51.古謝淳先生(南山病院)Vol. 42 No.5
52.城間清剛先生(城間クリニック)Vol. 42 No.7
53.野原正史先生(のはら元氣クリニック) Vol. 42 No.10
54.久貝忠男先生(沖縄県立南部医療センター・ こども医療センター)Vol. 42 No.12