常任理事 大山 朝賢
乾杯する大西先生ご夫妻(左)、大城先生ご夫妻(右)
梅雨いりは例年より少し遅れましたが、今年 の雨量は例年の3倍とか、6月5日祝賀会当日も 雨でした。祝賀会の司会を仰せつかっておりま したので、開会よりやや早めに会場のラグナ ガ−デンホテルにいき、来賓控え室で大城・大 西両先生ご夫妻にご挨拶をいたしました。大城 先生に直接ご挨拶を申し上げるのは初めてでし たが、先生は肌つやもよく大変お元気な様子で した。大西先生は北部地区医師会理事会で何度 もお会いした間柄で、いつもと変わらないご様 子に見えましたが、同行の大西弘之先生はお父 様によりそうように歩いておられました。羽衣 の間で、ほぼ時間通り祝賀会は始まり、式次第 にのっとり、宮城信雄沖縄県医師会長のあいさ つのあと両先生の紹介へと移りました。
大城盛夫先生は現在、沖縄県総合保健協会の 副理事長をされておられる関係で永山 孝・南 部地区医師会長による先生の業績紹介がありま した。先生は京大大学院で学位を取得後、昭和 39年4月より琉球政府立金武保養院(国立療養 所沖縄病院の前身)で医務課長として沖縄県の 結核医療を指導、指揮されています。当時は患 者さんが多く、医師が少ないうえに必要な薬品 が手に入りにくい劣悪な環境でしたがそれにも めげず結核の撲滅に奔走し、昭和53年12月に 国立療養所沖縄病院長になられてからは結核診 療の医療水準の向上に邁進されました。昭和54 年、進行性筋ジストロフィーを病む方々に沖縄 県で初めての病棟(40床)開設、翌年これを 80床と増床されております。瑞宝中綬章はこれ らのすばらしい、先駆的なご業績に対する受章 と心得ました。
大西弘道先生は現在名護市で開業されておら れる関係で、名嘉眞透・北部地区医師会長によ る業績紹介がありました。先生は熊本大学をご 卒業後、昭和30年から1年間の琉球政府立金武 保養院の勤務を終え、琉球政府立名護病院(県 立北部病院の前身)勤務の後、昭和34年から6 年間名護保健所長をされております。当時、劣 悪な医療事情のもとで、大流行した赤痢や疫痢 等の伝染病の発生防止・治療に日夜大奮闘され ました。昭和41年開業され、忙しい診療の傍ら 同年北部地区医師会理事に就任、医師会長歴も 含め実に38年の長きにわたって医師会活動し、 北部地区医師会病院や成人病検診センター設立 に貢献されました。学校医としても28年のキャ リアを持たれ、旭日双光章は地域に根ざした医 大城盛夫先生あいさつ 大城盛夫先生と京子夫人大城盛夫先生の表彰状 療・保健に全身全霊を打ち込んだご業績に対す る受章と心得ました。
両先生とも初めは雛壇で申し訳なさそうなお 顔をしていましたが、喜友名朝春・沖縄県福祉 保健部長祝辞(仲宗根 正・保健衛生統括監 代読)や花束贈呈が済んだあたりから、両先生 の頬が次第に紅潮していくのが司会者席からよ くわかりました。医師会主催の祝賀会に対する 両先生の謝辞では声をつまらせる場面もあり、 参加した多くの医師会の方々に祝福されるとさ すがにうれしさを隠せないご様子でした。新垣 善一・沖縄県医師会代議員会議長による乾杯 で、両先生ご夫妻共々フロアの医師会員との懇 親会となりました。
大城盛夫先生と京子夫人
本年の春の叙勲に際し、図らずも瑞宝中綬章 拝受の栄に浴し、去る5月12日厚生労働省で勲 章の伝達を受け、引き続き皇居において天皇陛 下に拝謁する栄誉と共に、お言葉まで賜り感激 の極みでありました。顧みますと、1964年の琉 球政府厚生局金武保養院で就職して、1994年 の国立療養所沖縄病院を退官するまでの30年 間、公務員医師として結核医療活動一筋に勤め させて頂きました。戦後の特殊な社会情勢の 中、結核ベット不足、医師不足などから先輩の 先生かたによって保健所を中心とした在宅治療 と、入院治療6ヵ月ベット回転制という沖縄独特の制度が行われておりました。
国費留学生は帰国後は専門外でも琉球政府の 愛楽園、宮古、八重山病院といったところに就 職することになっておりました。しかし私は京 都大学結核研究所で結核の臨床と基礎的研究に 従事しておりましたので、金武保養院に希望ど おり就職させていただきました。当時の金武保 養院はベット数460床、それに対し医師数は3 〜4名でした。しかし、その年から厚生省派遣 医師団が沖縄に援助活動に来てくださり、私と しては大変教えられることばかりで、派遣医師 の先生方に本当に感謝しております。1972年の沖縄の本土復帰に伴い、国立に移管されまし て、宜野湾市に新築移転の計画がなされまし た。現在の国立病院機構沖縄病院が結核最終拠 点施設であると同時に、肺ガン医療の中心的役 割を果たしていることに、私としては、後任の 院長をはじめ職員の皆様方の並々ならぬ努力に 本当に敬服しております。
病院の移転の時には、厚生省九州地方医務局 沖縄分室のご指導のもと無事移転し、新病院を 開設することが出来ました。結核病床を残減す るという時代になりまして、現在は100ベット から50ベットに減少しているという隔世の感を 抱くようなベット数の少なさでございます。県 当局そして県医師会の先生方のご指導と励まし を受けて、私のような小さいものが結核一筋に 働かせて頂けたことを皆様に感謝申し上げま す。金武保養院から宜野湾市の沖縄病院への移 転事業中には、各方面に大変ご迷惑をおかけすると共にお世話になりました。私事になります が、石川市で開業して地域医療に活躍しておら れました、長嶺安輝先生、実は家内の父でござ いますが、物心両面からの支援をいただき、特 に私は家族の面倒を見る暇もなく、病院移転に 伴う、全医労との団体交渉が連日連夜徹夜に及 びましたので、その間、長嶺先生ご夫妻には大 変お世話になりましたことをここで謹んで報告 し、また、御礼申し上げたいと思います。
本日はまた、先程来多くの先生方にお祝辞を 賜ると共に、沖縄県総合保健協会の職員の皆さ ん、そして沖縄県結核予防夫人連合会の方々、 多数の方々がこのような雨の中を駆けつけてく ださり誠にありがとうございました。
本日の皆さんからのご祝福を身に余るほど感 激しております。今日は本当にありがとうござ いました。
大城盛夫先生の表彰状
大西弘道先生と澄子夫人
みなさん今晩は。本日は公私共にご多忙の 中、祝賀会にご臨席下さいまして誠にありがと うございます。平成18年春の叙勲に際しまして は、図らずも旭日双光章を受章することが出来 ました。これも一重に先輩の先生方並びに皆様 方の多年に亘るご指導、ご支援の賜と深く感謝 いたしております。今後は健康に留意し微力な がら社会のために役立ちたいと存じますので、 皆様のご交誼を仰ぎたくよろしくお願いいたし ます。
私は公務員医師として10年間程勤務いたし ました。その後昭和41年、名護市にて内科・ 小児科を開業し、40年経過し今日に至っており ます。その間社会の変化に伴って医療も色々と 変化しております。自由診療時代、現金給付時 代、そして現物給付時代とめまぐるしく変わっ てきました。懐かしい時代でもあります。ま た、一方では医学は日進月歩であります。先生方におかれましては、お体を大事にして日々の 診療にお励み下さい。皆様方のご健康とご多幸 をお祈りいたしましてご挨拶といたします。
最後にこの祝賀会を開催してくださいまし た、県医師会長並びに県医師会の方々、そして 本日ご臨席の方々に感謝申し上げます。ありが とうございました。
大西弘道先生の表彰状
大城盛夫先生の瑞宝中綬章受章、並びに大西 弘道先生の旭日双光章受章の祝賀会が開催され るに当たり、ごあいさつを申し上げます。
大城先生におかれましては、本県の結核対策 において、戦後の高い結核有病率、極端な医師不 足の中で大きな社会問題となっていた当時、金 武保養院、国立療養所沖縄病院の院長を永く務 められ、結核患者の本土送り出し事業等の推進 役となるなど結核医療の向上に貢献されました。
また、他県での治療を余儀なくされていた進 行性筋ジストロフィー患者の受け入れのため、沖縄病院での筋ジストロフィー病棟開設に尽力 されました。
大西先生におかれましては、昭和41年に開業 以来、北部地域の公衆衛生、保健衛生活動の一 翼を担い、地域住民に対する疾病の予防や治療 及び健康の保持増進に尽力されました。
さらに、社団法人北部地区医師会役員として 北部地区医師会立成人病検診センター及び北部 地区医師会立病院の設立に尽力されました。大 城先生、大西先生の保健、医療、福祉の向上に 対する多大な貢献に対し、心から感謝申し上げ ます。
さて、本県の保健医療の状況につきまして は、復帰直後の医療要員の不足や医療施設の未 整備等、種々の問題について国や県医師会の御 支援や御協力を得て、その改善に努めてまいり ました。
一方、急速な高齢化社会の進展と疾病構造の 変化に伴い、県民の医療に対する需要も多様化 しており、県民一人一人の立場に立ったきめ細 やかな保健・医療の提供が求められております。
県としましても、関係機関と連携、協力し、 総合的な保健医療体制の確立を目指して県民の 健康づくりを始めとする地域保健の向上、医療 施設の整備等に努めているところです。沖縄県 医師会の先生方には今後とも御支援、御協力を よろしくお願い申し上げます。
結びに、大城先生、大西先生におかれまして は、今後ますますの御健勝と御活躍を祈念いた しまして、お祝いの言葉とします。
新垣善一代議員会議長
北部地区医師会長名嘉眞透先生
南部地区医師会長永山孝先生