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泰山登頂紀(その1)

稲福薫

いなふくクリニック 稲福 薫

クリニックを開設するにあたり多くの方から さまざまな援助をいただいた。そのなかでも不 思議の一つが泰山登山である。開設の半年ほど 前で準備に心を煩わせていた時期であった。長 いこと音信不通になっていたある女性から仕事 中に突然電話がかかってきた。きっかけは十数 年も前の話にさかのぼる。彼女には色々なもの を見る能力があるようで、何かの話からか前生 の話題になり、彼女が言うには、私(筆者)の 前生は中国の人であるという。こんな姿で崖の 上から世界を見渡している、とメモ用紙にさっ と簡単な絵を描いて渡してくれた。古代中国風 の着物を着て岩山の崖の上から下界を眺めてい る姿である。その絵をもらってアルバムにしま ったまま、「そんなこともあるか」という程度 でさして気にも留めず、いつのまにか記憶から も消えて十数年も経ったある日のこと思いがけ ず電話がかかってきたのである。彼女の話では 白い髭のおじいさんがこのところ毎晩夢に出て きては早く連絡をしろ、と持っている杖でつつ いてせかすものだからしかたなく電話をしてい るのだという。話によると、わたしの前生は冉 求(ゼンキュウ)という孔子の弟子の一人で、 絵の場所は山東省の泰山の近くにある方山だと いう。

突然舞い込んだ不思議な話にすぐに飛びつい た。別に真に受けたわけでもないが、彼女の正 直さはよく知っており、また損得関係があるわ けでもない私にわざわざ電話をかけてよこす彼 女の話が自然に聞こえた。それに、せちがらい 話ばかりのこの御時世でクリニック開設という 現実問題ばかり追い掛け回している毎日であ る。こんな面白い話に飛びつかない手はない。

さっそく、孔子関係の本で冉求という人の経 歴を調べてみた。歴史上の重要人物ではなさそ うで、本にも数行程度しか登場しない。孔子が 一度は失職した魯の国に戻るのに功績があった そうであるが、重税を取り立てる役人だったた めに孔子の怒りを買い、絶縁されたという。期 待していたような聖人君子でもなさそうだ。

山東省、泰山、方山、についても何にも知ら ない。インターネットで調べてみた。泰山は日 本でいうと富士山のようなもので、中国大陸を 龍になぞらえると頭に相当する髄一の山だそう だ。高さは1,540mとそんなに高くはないが、 秦の始皇帝から周恩来に至るまで時の権力者が 詣でて神様から権力のお墨つきをもらった山だ そうだ。そんな天下一の山だから中国人ならだ れでも生涯に一度は登りたがるという。その証 拠に、帰ってきて中国人に泰山登山の話をする と急に目を輝かせてうらやましそうにする。な にしろこの世の中心地を意味する中華のそのま た中心が泰山なのである。

山東省についても調べた。中国のほぼ真中に あり、黄河が流れ、省都は済南市である。孔子 ゆかりの地でもある。職場の同僚たちに問題を 出してみた。山東省って人口はどれくらい?と 聞くと、「五万人ぐらい?」「いや五十万人はい るだろう」という。実際は日本の人口とほぼ同 じ、約一億人である。中国人に会って情報を得 ることにした。沖縄在住20年という上海出身の 人だった。すると、「あそこは田舎だから山賊 が徘徊している。一人で行くと身ぐるみ剥がれ てしまうよ」などと脅された。こりゃー、やば い、と一瞬たじろいだが、それでも行くしかな い!?と、現地の旅行会社に案内人を手配して もらった。あとで知った話だが山東省は山賊の 出身地として有名らしい。方山というのも霊岩 寺という古いお寺の後ろにひかえる岩山の名前 でごく狭い地域の人しか知らず、地図にも載っ てないらしい。現地の旅行社でも色々と調べて やっと場所がわかったという。そんなわけで旅 行社のほうはこんな変なところに行きたがる人 間はたぶん学者か何かで研究目的なのだろうと うわさしていたという。一人で行くつもりでい たが、妻は旅が旅だけに一人でやると帰らぬ身 になってしまうかもしれないと案じてついてき た。かくして泰山参詣の旅が始まった。

那覇空港から福岡空港を経由して山東省の青 島(チンタオ)に降り立った。青島は九州の海 向かいで中国大陸から日本や朝鮮半島に向かっ て突き出した山東半島の付け根にある。そこか ら内陸に向かう。不安げに待っていると華奢で かわいらしい20台の独身女性が「ようこそ、山 東省へ」と笑顔で迎えてくれた。お願いしてい た案内人の劉さんである。彼女の笑顔で山賊の 心配が一気に晴れた。空港から車に乗り、高速 道路を一路西に初日の宿泊地である済南市へと 向かった。道の両側は黄河の流域に開けた世界 的な穀倉地帯で、行けども行けども見渡す限り の畑である。やがて、霞のかかった地平線に黄 色い夕日が沈み、とっぷりと日が暮れたころに 済南市に着いた。済南市はあの物議をかもした アジアサッカーの準決勝戦が行われた市であり、 過去の日中戦争では戦場になったいわくつきの 場所である。その百キロ先に方山がある。ホテ ルに着くなりさっそく市内を妻と二人で散策し た。山賊どころか済南市はすさまじく発展し続 ける近代的な500万都市である。ホテルのすぐそ ばに大きなデパートがあり、沖縄のより何倍も 大きい。日本と同じような品物が並べられ、値 段も大して変わらない。中国の平均賃金であん なものが買えるのかと余計な心配をした。

次の朝は早起きをしてホテルの近くを散歩し た。旅先での楽しみの一つがこれである。朝市 を見て回る。人々が思い思いの朝を過ごしてい る公園の周りに屋台が軒をならべ、豆乳やら、 饅頭やらのおいしそうな香りと湯気が立ち上っ て興味がつきない。そのうち、のどがいがらっ ぽくなってエヘンエヘン、ペッと痰をはきたく なった。まわりの人たちもカーッ、ペッ、と痰 をはいている。ここは大陸性気候なので空気が 乾燥しているのである。聞くと肺の疾患が多い のだそうだ。

朝食をとってさっそく方山へ向かう。泰山の 登山口の町である泰安市とここ済南市との中間 にあるという。中央街道を南にひた走る。道の 両側には一面の緑の平野の中からごつごつした 岩山があちこちにそびえ立っている。方山もそ んな景色の一つなのだろう。トラックが頻繁に 行き交う道のところどころに簡易宿泊施設のよ うなものがあり、その前で若い女性たちがあら れもない姿で肌を露出させている。鼻の下が伸 びそうになるのをがまんして劉さんにあれは何 かと聞くと、トラック運転手の常宿で夜の相手 をする女性の客引きだという。そのうち、車は 横道に入り、山の方に向かった。ゆるい坂道を のぼっていく。周りは牛だの馬だの畑だのと中 国の山村の風景が広がっている。1時間ほどし て行き着いた先に古寺があった。霊岩寺であ る。中国の四大古寺の一つで国宝級だという。 観光客は多いが日本人はみあたらない。大きな 寺で境内の広さは日本の東大寺ほどはあるだろ う。千年は経っているという柏の木がごろごろ している。かたわらには、鎌倉時代に訪れたと いう日本からの修行僧の墓があった。墓は立派 な佇まいで、掃き清められている。あの頃には ここに来るのさえ命がけだったのだろう。そし て修行半ばにして命を落とし異国の地に葬られ ている。それに比べてひょいひょいと来てこの 地に立っているわが身を振り返って複雑な思い にかられた。

寺の背後から覆い被さるようにして巨大で切 り立った岩山が聳えている。これが方山であ る。堂々とした姿に圧倒される。方とは長方形 の意味で、字のごとく箱のような岩山で、まる でとてつもなく大きな物を入れているようだ。 数百段の階段が岩山にへばりついて崖の上にま で続いている。目を凝らして見るとはるか上に 点のように東屋が見える。あそこまで登るのか と思うと意気消沈しそうになるが、明日の泰山 では7,000段を登らなければいけない。これく らいでおじけついている場合ではないと気を取 り直して登り始めた。すると中年女性がミネラ ルウォーターを手提げ袋いっぱいに背負って後 ろからついてきた。こんなに重いものを持って 大変だと同情していたら押し売りだった。いら ないというのに後をしつこくついてくる。手ぶ らな身でもきついのにご苦労なことだ。無視し て登っていたがあまりのしつこさに根負けして 一つ買うことにした。お金を受け取ると女性は きびすを返すように階段を下りていった。彼女 らは、客がふもとではいらないと言っているが そのうちゼーゼー、ハーハーして水を欲しがる とふんでいるのだろう。そのようにして日に幾 度となく客について山を上り下りしているので ある。たくましい。

一時間ほどで頂上に立った。眼下に霊岩寺の 全貌とその地方がパノラマのように眺められ る。はるか先には泰山の山並みが霞んで見え る。崖の洞窟には数mほどの磨崖仏があり、端 っこには東屋が建っている。その上に立った。 足元は目もくらむような崖で、足がすくむ。メ モ用紙の景色とよく似ている。でも、何も起こ らない。何も聞こえない。しばらくはボーと空 を眺めていた。自分の前世という人はここで何 を思ったのだろう。空の広さがやけに目に染み つく。

霊岩寺の山門(後ろの岩山が方山;左上のほうに東屋がある)

(会報7月号へつづく)