始めも終わりも彼だった

県立那覇病院 大城 清

私のたばこ歴

 数年前の話。

 「とうとう禁煙した」

 学会のため二度目の来沖だった。琉球料理屋で旧交を温めている際に、彼が言った。前回の来沖の際はすぱすぱ吸っていたが、どういう心境の変化であろう。

 「どうして」

 「お前なあ、海外出張したらたいへんだぞ。まず出発地の空港で禁煙、飛行機の中で十数時間、到着地の空港でもまた禁煙、タクシーの中でもだめ、ホテルの自室でようやく吸えた。およそ二十時間ちかくはまるで拷問だ」

 「そうか。偉くなるとたいへんだな」と相槌を打つ。

 「お前もそろそろ止めたらどうだ」

 この会話は心に刻まれた。「いずれは止めないと」と考えた。

 当時彼は西日本の某大学の助教授だった。現在は都内の大学の教授になっている。

 思えば三十数年以前、大学に入学した春、彼とはたまたま隣の席になったので付き合い始めた。彼に誘われて医学部のラグビー部に入部した。西医体に備えた七月の合宿中に彼に一本提供を受けたのが私の喫煙歴の始まりだった。

 久しぶりの再会から、およそ一年後、臨床研修指導医の研修会があった。一週間缶詰で、外出できないと聞いていた。また禁煙だと言う噂が流れていた。覚悟して参加したが、喫煙できた。分煙だった。正直ほっとした。一日の研修を終えた9時過ぎには、交歓会がありビールも飲めた。全国から参加してきた研修生と仲良くなれたし、医療推進研修財団の先生方とも知り合いになれた。楽しかったし勉強になった。先生方との会話のなかには、将来、臨床研修病院では敷地内全面禁煙が要求されるだろうことがおぼろげながら分かった。「いよいよ覚悟を」と思った。

 飲酒する時はチェーンスモーカーであるが、それほど深くは吸い込んでいなかった。煙草は大好きというほどのものではなかった。家では二十数年来の完璧なホタル族であったし、医局や病院の宴会では会場の外に灰皿を探していた。一応だいぶ前から分煙を意識していた。それにしても沖縄のドクターやナースは偉い。本土で学会関係の懇親会に参加すると会場内で喫煙する方が女性にも男性にも多いのに、ずいぶん前から沖縄ではそういう光景を見かけない。

 研修会を終えた二ヵ月後の十一月中旬、沖縄で学会があった。同門の後輩も来た。彼らや病院の医局の同僚に禁煙宣言をした。ついでに県内の知り合いの先生方、禁煙外来を開いている先生方にも宣言した。ついでに行きつけの店でも宣言した。

 十一月中旬を選んだ理由は、そろそろ忘年会シーズンが始まり酒席の機会が増えることを見越してのことだった。飲酒している時が一番多く喫煙していることが分かっていたのであえて選んだ。宣言して間もない意気込みに燃えている頃に、宣言を聞いたことのある知り合いが同席する酒席で守れないぐらいであれば、これは土台無理な話だなと考えていた。もうひとつは、ひと月もすれば年末年始の休暇になるからであった。禁煙してひと月になると怪しげな症状が出るかもしれない。その時は、水でも飲んで風呂入ってそのまま寝てしまおうと考えたからである。今までも、朝から夜遅くまで手術する時には家に帰ってから、バタンキュー。その日はせいぜい一本か二本ぐらいしか吸っていない。寝てしまうのが一番と考えていた。出勤していたら、こういう具合にはいかない。ゴロンと横になれないし結構ストレスになるかと考えていた。年末年始の休暇をうまく利用しようと考えた。

 実際、妙な具合になれば水飲んで風呂入ってゴロンと横になった。おまけに風を引いた。のどが痛くて煙草どころではなかった。災い転じて福となす?好都合?だった。

 補助手段として、高橋裕子先生が主宰されたインターネット禁煙マラソンに参加しようかと考えていたが、いつでもインターネットができる環境ではなかったので参加しなかった。通信販売で禁煙煙草なるものを購入したが、途中で不要になった。みっともないガムをクチャクチャ噛んでいた。また、やたらと医局に置いている茶菓子を口にしていた。おかげで数キロ太った。禁煙外来があれば、文字通りフマートに禁煙ができたかもしれない。禁煙外来では健康的なやめかたを是非サポートして欲しい。禁煙外来を利用できない方はインターネット禁煙マラソンを利用されるのも一つの手段であろう。私の周りには、私の禁煙宣言を知っている知り合いが大勢いてサポートしいてくれた。

 幸い今のところ、禁煙が続いている。他人の煙草が気になるようになった。ホテルも禁煙ルームを選ぶし、酒席も風上に座るようにしている。かくして私の30数年の喫煙歴は終わった。

 始まりも終わりもきっかけは彼だった。

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