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「コンボイ」で行くシナイ
半島とイスラエルの旅

長嶺信夫

長嶺胃腸科内科外科医院
長嶺 信夫

1. はじめに

シナイ半島とイスラエルを旅してから2 か月 が過ぎた。エジプトでは「アラブの春」の政変 後就任したモルシ前大統領派と反大統領勢力と の抗争がますます激しくなり、とうとう軍事ク ーデターでモルシ氏は拘束され、ますます混迷 の度を深めている。筆者は4 月下旬から5 月連 休にかけ、カイロ経由でシナイ半島と緊張が続 くイスラエルを訪問した。

2. 塵が散乱したエジプト観光地

関西空港からカタールのドーハ空港経由カイ ロ空港に着いた。当日はカイロ市内で1 泊の日 程であった。ホテルで落ち着いた後、夜までま だ時間がある。誰言うことなく、その時間を有 効に使用してギザのピラミッドを訪ねることに なった。カイロ市内を車窓から見学しつつナイ ル川を渡り、幹線道路からギザ市内に入る。ゴ ミゴミした路地をぬけ、やがて薄汚れた建物の 間からピラミッドが見えてきた。ピラミッドに 向かう道路沿いに細い川があり、川沿いには塵 が散乱し、山積みになっている。その上で羽ま で灰色に染まった白鷺(?)が塵をあさってい た。エジプト最大の観光地であるギザがこの惨 状である。「アラブの春」の政変以来混迷が続 くエジプトを象徴している現象であった。

3.「コンボイ」で行くシナイ半島

翌朝、スエズ運河のトンネルをくぐり、シナ イ半島に入る。そこからスエズ湾沿いにモーセ が人々の渇きをいやしたという泉に立ち寄った 後、そのまま南下し、シナイ山麓の聖カタリー ナに向かう予定であったが、3 月にシナイ半島 で武装勢力による外国人の誘拐事件が発生し、外務省の「渡航安全情報」で、シナイ半島に「渡 航の延期を勧告」および「渡航の是非を検討し て」と危険情報が出されていたため、南下ルー トはとらず、シナイ半島を横断したあと、アカ バ湾沿いに南下し聖カタリーナに至るルートを とることになった。

写真1.

写真1. 装甲車が先導する車列

シナイ半島の移動では、一部警察車輌が同行 するとのことで、ジープやトラックに乗った警 察官の同行を想定していたが、実際は装甲車が 先導する警備、いわゆるコンボイ走行で、装甲 車を先頭にツアーバスやタンクローリーが隊列 を組んで進んだ。考えてみると、武装集団の襲 撃には銃弾をさける覆いのない車輌では役にた たないのである(写真1)。

4. 転びながらシナイ山に登る

モーセの「十戒」を知らない人はいないだろう。

夜半にシナイ山麓のホテルを出て、バスで 登山口に至る。ツアーの半数は頂上(標高 2,285m)まで徒歩での登山であるが、老いを 自覚している家内と2 人は7 合目までラクダ に乗って行くことにした。ところが、ラクダが また大変である。乗ったことがある人ならわか ることだが、ラクダの鞍が大変である。鞍の前 後中央に、先端が握りこぶし状になった棒状の 突起があるだけで特別の背もたれもなく、手綱 もない。人間工学的に考えて「どうして改良し ないのか」と思うほど、不思議でしょうがない 乗物であった。おかげで、ゴツゴツした岩だら けの登山道の坂道を揺られながら登るラクダの 上で、下腹部と腰部を強く圧迫されながら、振り落とされないよう鞍の端を必死につかんでい た。7 合目からは、ヘッドランプを頼りにした 自力の登山であるが、小石混じりの岩だらけの 登山道で、転びつつ頂上にたどりついた。

頂上で、御来光を拝む。辺りで巡礼に訪れた 人々が賛美歌を歌っていた。年配者もいて信 仰の偉大さを感じた(写真2)。帰りは、麓ま で自力下山である。荷物がかさばるのでトレ ッキング・シューズを持参せず、少し狭いと 感じていたズックを履いたのが悪かった。2 時 間の下山でつま先を傷め、10 本中6 本の爪床 に出血して、痛みのため思うように歩けない。 前方を見ると、かなりの肥満体の中年女性が幾 人もすたすた歩いていた。老いを実感する登山 であった。

写真2.

写真2. シナイ山頂での祈り

5.「死海」と「マサダ要塞」「死海写本」

しばしば話題にのぼる「死海」で浮遊体験を した。面白いことに湖は塩が完全飽和状態にな っているのであろう。海(?)底に手を入れる と、直径1 〜 3cm にもなった塩の結晶を手に いっぱい掬い取ることができた。金平糖のよう な形である。かじってみると、自然塩そのもの の味わい深いものであった。持ち帰った塩は車 のダッシュボードに入れ、菩提樹苑での作業時、 時々かじっている(写真3)

写真3.

写真3. 死海の浮遊体験

死海に続いて、ユダヤ教徒がローマ軍に抵抗 し、悲劇の死をとげた要塞都市「マサダ」、「死 海写本」が発見された「クムラン洞窟」の展望 台に立ち寄った。

「マサダ要塞」はローマ軍がエルサレムに攻 め入った西暦70 年頃のユダヤ戦争のとき、エリアゼル・ベン・ヤイールに率いられたユダヤ 教徒の熱心党員967 人が最後まで戦いつづけ、 籠城した岩山の要塞である。抵抗は2 年以上も つづき、異教徒の辱めを許容しない人々は西暦 73 年、7 人の婦女子を除き全員自決している。

現在もここでイスラエル軍の入隊宣誓式がお こなわれ、式の最後には「マサダは2 度と陥落 させない」という言葉で締めくくられていると いう。イスラエルを訪れる外国の要人が必ず立 ち寄る場所と説明をうけた。遺跡の大きな岩山 の上には、巨大な貯水槽や倉庫などがあり、ロ ーマ軍が使用した「投石機」の直径40 〜 50cm ほどの岩塊が山積みにされていた(写真4)。

写真4.

写真4. マサダ要塞の断崖

「死海写本」は1947 年、迷った羊を捜索し ていた少年が洞窟を発見し、土器に入った羊皮 紙の古文書を発見したといわれている。羊皮 紙には「イザヤ書全巻」や「詩篇」を含む「旧 約聖書」や「ユダヤ経典」などが含まれ、紀元 前2 世紀の写本といわれ、実物の古文書はイ スラエル博物館の写本館に保存されていて見 学することができた。ユダヤ戦争のとき、逃 亡のために隠されていた巻物だけが、その後、 日の目をみたのである。近くに、当時死海側で 暮らしていた人々の集落跡が遺跡として保存 されている。

6. 歩け、歩けのエルサレム市内観光

2 日間にわたって旧約聖書や新約聖書に記載 されている場所をまわったが、歩け歩けの連続 であった。敬虔なユダヤ教徒、キリスト教徒が 遠くはエチオピアや南米からも巡礼に訪れ、ま るでお祭りである。訪問先の旧市街を見下ろす オリーブ山麓にある「ゲッセマネの園」で、樹 齢760 年といわれる8 本のオリーブの古木に 興味がひかれた。はるか昔から受け継がれてき たという(写真5)。

写真5.

写真5. ゲッセマネの園のオリーブの古木

「ゲッセマネの園」は頻繁にイエス・キリス トが訪れた場所で、弟子達と最後の晩餐を終え たイエスが、ゲッセマネの園に入り、この後に おこる出来事を予感しながら、血のような汗を 流しながら父なる神に祈り続けたと「ルカによ る福音書」に記載されている場所である。

7. パレスチナ自治区(エリコ、ベツレヘム)を訪ねて

ツアーではパレスチナ自治区のエリコやベツ レヘムも訪ねた。報道でみる自治区はエルサレ ムに比較しかなり貧しく、日常生活の住宅、土 地も豊かではないと思っていたが、広い敷地に 建つ邸宅は予想に反するもので、エリコにいた っては水資源に恵まれ、多くの果樹が栽培され、 ベツレヘムは生誕教会を訪れる巡礼者や観光客 のため、賑わっていた。

報道のとおり、エルサレム市街とパレスチナ 自治区との境界には厳重な検問所がある。エル サレムと自治区をへだてる高い塀には、抵抗を 示す多くのメッセージやパレスチナを象徴する 絵画が描かれていた(写真6)。なかなか見事 な絵である。

写真6.

写真6. パレスチナ自治区境界の壁

8. 地雷原のゴラン高原

シリアとの緊張が続くゴラン高原にあるナハ ル・ヘルモン国立公園を訪ねた。ガリラヤ湖畔 のホテルを出発し、「狭き門より入れ」「求めよ、 さらば与えられん」などイエスの有名な語句 (マタイによる福音書第7 章)が語られたガリ ラヤ湖が見渡せる丘を訪問した後、国境方面に向かう。

進路を北東にとり、なだらかな丘陵地帯を進 んだ。幹線道路の要所に軍隊が駐屯し、戦車が 並んでいる。停戦ラインに向かうにつれ、道路 わきに地雷を示す赤い標識が立っている。膨大 な数の地雷を撤去するのも大変だが、何時戦場 になるかわからない場所である。そのままにしているのが賢明と考えているようだ。

ゴラン高原は、もともとシリア南西部に位置す るシリア領の高原であるが、1967 年の第3 次中 東戦争でイスラエルがシリアから奪い取った戦 略上の要衝である。ゴラン高原は平均標高600m でヨルダン川流域をみわたせ、豊富な水資源はイ スラエルを潤す水源になっている。現在国連の停 戦監視団が停戦ライン沿いに配置されているが、 シリア情勢との関連で緊張が高まっている。

ヘルモン山の麓の公園では雪解け水が滾滾と 湧き出て、透き通るほどきれいである。1 時間 ほど川に沿って下ると涼しいしぶきをあげる滝 もできていた。川を下ってガリラヤ湖に灌いで いるとのことであった。

ガリラヤ湖畔のホテルで古の出来事に思いをはせていた。

「あぁ、ここでイエスは漁師のペテロと出会ったのだ」と(2013 年7 月記)。

ガリラヤ湖の湖底で発見され、復元された古代船。遊覧船に使用されている。