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73 才からの趣味

久場 長毅

久場整形外科医院  久場 長毅

高校時代の国語の先生が教室に入ってくるな り、いきなり「勘学」と云う詩吟を朗々と吟じ これを解説して生徒は皆びっくり喝采したもの である。当時、漢文は選択科目で一応学んでは いたが、以後全く漢詩を忘れて60 数年過ぎた が、NHK のテレビで早朝漢詩の解説があり、ま た正装して詩吟を吟じているのを見た、中国の 古代史にはもともと興味はあった。ある会場で 知人から近年、純粋の日本文化である詩吟が盛 んになっているが一緒にやりませんかと誘われ た。後で知ったが彼は「沖縄海邦岳風会の副会 長」であった。「私は声が出ないのでと辞退した」 が低音でも高音でも自分なりの声でいいのだと 云われ、以前から興味があったのも手伝って参 加してみた。当時は安謝公民館で8 名の生徒で あった。私は初心者だが皆10 年以上の経歴者、 83 才の方でも大きな声を出している、女性が 二人、美声を張り上げでいる。次第に自分には こんな事が出来るだろうかと心細くなってい た。先生はそれを悟ってか、最も有名な漢詩「頼 山陽」の「鞭声粛粛夜河を渡る……」を一字一 字解説し、時の状況を説明されてから声のだし 方を教えてくれた。下手なりに先生について声 を出してみる。とても吟ずると云えるものでは なかった。そのうち何とか真似ることができた。

ご存知の通り漢詩は中国起源であるが盛唐に は一定の形式が出来日本でも平安時代には盛ん に漢詩が作られ多くの人が漢詩を詠み大正、昭 和の初めまで作られた。夏目漱石、新島襄や正 岡子規それ以後の人も漢詩を残しているが昭和 になると衰退する。琉球でも古くから漢詩は作 られ、琉球漢詩集がある。漢詩を吟じる内に、 次第に漢詩が出来るその時代の歴史、政治、経 済等の背景と作者の感情、情熱、知識が興味を 引く様になった。最初は七言絶句から取得し、 五言絶句、律詩(七言絶句は七文字で四句、五 言絶句は五文字で四句、律詩は七言、五言でそ れぞれ八句)と進むのだが、ある程度出来た頃、 和歌、俳句、近体詩、今様まで詩吟で吟ずる事 になる。最も多く吟じられる人は李白、杜甫と 日本では頼山陽であろう。菅原道真の作は寂し さが多く、上杉謙信、武田信玄は勇壮そのもの、 吉田松陰、大久保利通、西郷隆盛、木戸後胤は 国を想う情熱に満ちている。それに比べ琉球漢 詩は風景、人情を読んだものが多い。なんと云 っても盛唐の李白、杜甫、王維、杜牧、陶潜、 朱喜、王之換、高適、王昌齢、孟浩然、白居易、 蘇軾など名前を挙げる暇がない。私が好きな漢 詩を二三揚げてみよう。




<読み方>葡萄の 美酒 やこうのはい。のま んと 欲すればびわ馬上にもようす 酔うてさ じょうにふすとも君 笑うことなかれ こらい せいせん 幾人か 帰る。<大意>美味しい葡 萄酒を 月光に照らされた輝く白玉の盃に注い で飲もうとすると馬上で琵琶を掻き鳴らし興を 添えるもりがいる、酔いつぶれて砂漠に倒れ臥 しても、君、笑わないでくれたまえ、昔から戦 場に出た者が無事に都へ帰ったものは、いった い幾人だろうか。『有名な詞だ、葡萄酒、白玉、 琵琶何れも西域から来た。西域の砂漠の戦場に 向かう兵士の明日をも知れない悲壮な心情が伺 える』



<読み方>千山 鳥とびたえ ばんけい じん しょうを滅す孤舟 さりゅうのおう ひとり  つる 寒江の 雪に。<大意> 連なる山々に は鳥の飛び交う影もなく、路という道には通る 人の足跡さえもない。唯一艘の小船に蓑笠をつ けた老人が一人雪の降る寒々とした大河の川面 に釣り糸をたれている。『大雪が降っている物音もしない大河に蓑を着た老人が一人釣りをし ている。墨絵の世界を詠っている。』



<読み方>王事に ろうろうしてかんしんに  たえ かちえたりこうひに こしんと 記 するを ばんりの海空 生死をへだつるもいち じに ふし むこんしたし さんかはるかに映 ず ていけんのち やまんなおひく かばのし ん こふんにいれんして しきりに 慟哭すれ ば路傍の しょうかくも また きんをうるお す。<大意>王事に数々の苦労を重ねた父、異 郷で殉じ故臣として墓標まで建立され万里の海 を離れているが父子の愛情は忘れない。山のほ ととぎすも鳴いて血を吐く様だ、野のつる草も 馬の脚に絡みつき離れ難い思いをしている。荒 野に立つ墓に離れ難く慟哭していると、通り過 ぎる木こりも、思わず貰い泣きをしている。


<読み方>此の地燕の丹にわかれる。壮士の髪 冠をつく、せきじひとすでに没し、こんにち水 なおさむし。

<歴史>駱 賓王が易水の畔を訪れたが、かっ て燕の太子丹と荊軻(けいか)が別れた所だ、 その時の人々は皆去ってしまったが易水の水 は今でも寒々としている。この歴史は戦国時代 『燕の丹は秦の王、政(後の始皇帝)の人質に なったがひどい冷遇に合ったのを恨でいた、刺 客の荊軻に政の暗殺を依頼した、この易水の畔 で荊軻は(風しょうしょうとして易水寒し壮士 一たび去ってまた帰らず)と謡い見送りの人と 別れた。秦の政の前に出た荊軻は燕国の一部を 割除して秦に差し出すと云って地図を拡げる、 その中に匕首アイクチ を忍ばせてあり、政の袖を掴んで 匕首で斬り掛かった、居並ぶ武将はあっけにと らわれていた。広間でもみ合ったが政は逆に剣 を抜いて荊軻に斬りかかった。暗殺は失敗し た。秦の政は怒って直ちに燕に攻め入ってこれ を滅ぼした。』漢詩には歴史を題材にしたのが 多い。この逸話を知らないと此の漢詩の意味は 半減する。


詩吟はドレミファソラシのレソ抜きで吟ずる が、表記するのが難しい、頼山陽は江戸時代の 人、川中島決戦の襖絵をみて「題不識庵撃機山 図」<ふしきあんきざんをうつにだいす>を詠 んだ、これに節を付け吟ぜられる様に書いてみ よう。


起句は上杉謙信が夜陰に乗じて馬を打つ鞭も 静かに千曲川を渡る、情景で静かに吟じ起す、 承句は暁の霧が晴れると川を渡ってきた大将旗 に驚く武田軍の状況でやや強く吟ずる。転句は 謙信が長い間鍛えた腕の一剣で打ち掛かった。 その意気込みを強く高音で吟ずる。結句は、だ が流星の輝く一瞬の差で強敵信玄を打ち損じて しまった。しまったと云う気持ちでさらっと吟 じ終わる。


詩吟は深く息を吸って腹の底から声を出し、 健康にも良いと思う正しいアクセント、漢字の 理解、作者を知り、古事成句を学ぶ良い機会と 思っている。私たちの教室は新都心の運動公園 の一角にある緑化センターで毎週金曜日pm7 〜 9 まで開催している。