前副会長 小渡 敬
(平和病院)
前会長の稲冨洋明先生とは、沖縄県精神科病 院協会で仕事をしていた縁があり、先生が医師 会長に就任された際、県医師会の理事に推薦さ れ医師会活動に携わることになりました。当時 の県医師会は、浦添市の沖縄県医療福祉セン ターの建物の一部を間借りしており、狭い場所 で理事会等の会議をしておりました。事務局は 足の踏み場もないほど狭隘で、書類や資料は廊 下にはみ出している状況でした。当時から県医 師会館を建設することが大きな目標の一つであ りました。現在、県医師会館は完成し運用され ていますが、当時を思うと隔世の感があります。
その後、宮城信雄会長が就任された際に副会 長に指名され、身分不相応ながらも重責を担う ことになりました。直近の課題としては診療報 酬・介護報酬改定の対応、今年策定した沖縄県 21 世紀ビジョンの医療・保健分野の検証、こ れからの5 年間の県保健医療計画の策定、また 琉大に完成したシミュレーションセンターの運 用への協力、はたまたTPP 問題等々があり医 師会の仕事は多岐に渡りますが、新役員の先生 方に引き継ぐことになりました。
退任にあたり、当時の医師会のことを少し振 り返りますと、わが国は既にバブルがはじけて 不況下にあり、小泉内閣が発足しグローバル経 済を掲げ様々な施策が施行されておりました。 医療政策については毎年2.2 千億円の医療費削 減が断行され、医療界は厳しい状況にありまし た。本県でも行政改革が叫ばれ、沖縄県保健医 療福祉事業団の廃止や県立浦添看護学校の廃校 問題があり、医師会執行部としてはそれを阻止 するために様々な活動をしたことが思い出され ます。また当時は助産師不足の問題もあり、こ れは県立看護大学に助産師学科を併設する形で 解決することができました。またその間に、国が療養病床廃止の政策を打ち出し、県内でも将 来医療難民や介護難民がでるという大きな社会 問題に発展しました。この問題については県と 充分な話し合いを重ね、難民がでない範囲の削 減幅(約30%)にとどめることができました。 精神科身体合併症問題は南部医療センターに病 室を併設する形で解決することができました。 しかしながら肥満対策や自殺予防、認知症の対 応等の問題が充分解決しないまま「活力ある長 寿県の復活」や「離島・僻地医療の確保」、「北 部医療圏の産婦人科医師の問題」等については、 未だに解決していない問題であります。
県医師会の役割は尽きることはないと思いま すが、医師会の仕事は医師会員の便益を図るこ と、同時に県行政機関と連携を図って沖縄県民 の医療と保健そして福祉の推進に貢献すること であると考えます。それには琉大病院、県立病 院、そして民間の医療施設が協力し連携を図る ことが重要であると考えます。これからも県医 師会が潤滑油となり、これらの機能を果たして もらいたいと思います。
最後に10 年間医師会活動を行えたのも、理 事の先生方の協力と、前山城局長をはじめ現在 の上原局長ならびに優秀な事務局スタッフのお かげであります。お礼を申し上げます。
〜医師会印象記〜
宮城会長と玉城副会長の三役で初めて東京に 出張したときに新橋で酒を呑み、沖縄の医療の グランドデザインについて3 人で口角泡を飛 ばして議論していたが、2 人とも酒豪でその呑 みっぷりに圧倒され、最後には私はひたすら2 人から薫陶を受けている状況になっていたこと を新橋に行くと思い出す。
前常任理事 大山 朝賢
(沖縄メディカル病院 理事長兼院長)
この度北部地区医師会から、久々に石川清和 先生(北部地区医師会副会長)が県医師会理事 に立候補し見事当選致しましたので、老兵は ホッとして消え去ることに致しました。
上田裕一もとぶ野毛病院理事長が、私に県医 師会理事になってほしいと依頼してきたのは、 私が関西から名護市に移り済んで2 年目の平成 9 年だったと思います。その当時はウチナーン チュでありながら、沖縄の地理に詳しくなかっ たので、「あと数年まってほしい」と上田先生 に返事をしました。平成14 年の北部地区医師 会の総会で、再び上田理事長から県医師会理事 になるよう依頼されました。二つ返事で答えた ところ、平成15 年4 月上田理事長が県医師会 の常任理事の任期半ばで交替となりました。
私はもともと医師会は好きではなかったので す。私自身医師会の理解度が低く、医師会は開 業医の利益を守る代表とばかり思っていたも のですから。しかし自分が40 代の後半を過ぎ て医療法人に就職したあたりから考え方がかわ り、何か役に立てることはないかと逆に思うよ うになりました。平成15 年4 月、その当時県 医師会の常任理事をされていた上田理事長の仕 事をほぼ全部引き受ける形で理事に就任しまし た。今思えば、もっと具体的に仕事の内容を聞 いてから引き受けるべきでした。上田理事長は シャープな上、私とはキャリアが違う。私がゆ く先々で彼の仕事ぶりを知らない人はいません でした。私は稲冨洋明前会長の下で3 年、宮城 信雄会長の下で6 年、計9 年になりますが、ま とまった仕事らしい仕事が出来たという感触は 今もってありません。しかし県医師会理事に なってよかったと思うことはたくさんありま す。その一つは日本医師会の動きが手にとるよ うにわかってきたこと、医師会長はじめ理事の 方々が与えられた仕事に対し、身を粉にして働 いていることを知ったことです。
勤務医やまだ医師会に入会されてない開業を されている先生方は、かつての私のように、医 師会は何の役に立つのだろうぐらいの考えしか ないと思います。これは自分の環境がなんとな くうまくいっているからだと思います。
しかし、一旦問題が起これば、例えば、医療 訴訟やパンデミックな感染症、東北の大震災の ような予期せぬことが起こった場合、だれが自 分の味方になってくれるか、国や県の援助等は あると思いますが、やはり仲間である医師会が 一番頼りになります。
最後になりましたが、これまで私の仕事を支 えて頂いた上原貞善局長はじめ事務局の献身的 な協力態勢に心から感謝申し上げます。又、宮 城会長はじめ皆様のご健勝とご多幸を祈念し、 私の退任の弁と致します。
長い間のご協力、ご支援まことにありがとうございました。
前理事 當銘 正彦
(沖縄県立南部医療センター・こども医療センター 副院長)
2008 年4 月、沖縄県公務員医師会からの代 表枠として沖縄県医師会理事会の末席に就かせ て頂いた。この人事は、それまで私が努めてい た公立久米島病院に、私と入れ替わりで赴任す ることになった村田謙二先生がその理事職を努 めていたので、相互入れ替えのかたちで実現し たものであるが、県医師会の右も左も解らない 状態で中枢部に紛れ込む羽目となった次第であ る。今に思い返せば真に不調法な就任であった が、この度の離任に当たり、理事として務めた 4 年間の足跡を少しばかり顧みてみたい。
以前にも何かの折りに書いた記憶があるが、 医師会の役員・理事の業務は尋常ならぬもの である。取り分け、会長、副会長、常任理事の 3 役は、恐らく自分の医業の犠牲は相当に強い られている筈だ。それは医師会本来の役員業務 だけでも大変であるが、加えて、医師会として 関与する対外的な役目や仕事が凡そ半端ではな い。会長に至っては、私的な日常活動は皆無に 近いものではないかと推量される程である。年 間、約3.5 億円の予算を組んで展開される県医 師会の事業である。これまで公務員医師会活動 については自分なりに一所懸命に取り組んで来 た自負もあったが、県医師会活動については全 く無知・無関心であっただけに、当初の逡巡は 相当に大きいものであった。
それでも理事会の運営は予想に反して紳士的 に為されていること、また何よりも心強いのは 医師会本部・事務局職員の献身的なサポートで あり、戸惑いの連続ではあったが何とか無事4 年間を努めることができたのは、事務局に負う ところ真に大である。
私の理事としての主たる所掌は、広報委員会 (担当理事)、医療安全および医事紛争処理委員 会(副担当理事)、医師会史編纂委員会(副担当 理事)の3 つであったが、オプションとして日 医の勤務委員会に参加する幸運を4 年間にわた り務めることができた。その他には対外的な委 嘱を受けて沖縄県がん対策協議会の研修部会お よびがん対策推進条例策定連絡会議、那覇市地 方裁判所委員会、難病対策会議等々の活動に参 加させて頂いた。
担当理事として臨んだ広報委員会は、月1 回 の編集会議で諸般の方針を論議し、決定してい く訳であるが、記事や論説の手配・収集、そし て点検は相当に手間暇の掛かる作業であり、専 属の事務方数名の奮闘無くしては、到底不可能 である。加えて、県内二誌(タイムス、新報) に毎週掲載する医療版コラム「命ぐすい、耳ぐ すい」と「ドクターのゆんたく、ひんたく」の 原稿依頼とその査読も広報委員会の仕事となっ ており、それだけでも可成りの労力を要求され るものである。幸い読むこと自体は好きな方で あり、私個人としては比較的楽しく広報委員活 動を行うことができたとの感慨である。
終戦から祖国復帰までの27 年間の県医師会 活動を編集した「沖縄県医師会史 第1 巻」に 引き続き、祖国復帰から医師会館建設までの 36 年間を編集する「第2 巻」の医師会史編纂 委員会の活動は、私が理事になる約1 年前の 2007 年から始まっており、途中からの便乗と いう形で私は加わることになったのだが、友寄 英毅先生、中村義清先生のご両人が正副委員長 として並々ならぬ精力を傾注されて、「第2 巻」 は2011 年3 月に上梓された。この会史編纂に 要した5 年に亘る歳月は、担当理事である私にも相当にタフな作業工程であったと回想される ものであるが、第1 巻が16 年かけて出版され たことに比肩すると、この超人的な効率の良さ は友寄、中村両先生の執念にも近い医師会活動 への愛着と、それを脇から献身的に支えた事務 局職員との二人三脚の賜物である。お陰様でこ の間、私も会史編纂作業を通して県医師会の歴 史を、随分と詳しく学ぶことができた。
最後に日医勤務委員会の活動へ参加した貴 重な体験について述べたい。理事に就任して間 もない2008 年7 月、九州ブロック選出の委員 として日医勤務委員会に参加することになっ た。全国から選出された16 人で構成する委員 会であるが、本やテレビでその名を馳せる鈴木 厚氏や本田宏氏らの歯に衣を着せぬ痛論に先ず は驚いた。また千葉大同窓で同じ呼吸器内科の 分野で活躍する獨協大学福田健教授が居られる ことには安堵もし、大いに勇気づけられた。委 員の任期は2 年で、新規発足時に医師会長よ り諮問テーマを貰うことになっているが、初出 の2008 年に頂いたテーマは「医師の不足、偏 在の是正を図るための方策―勤務医の労働環境 (過重労働)を改善するために」であり、2 期目 の2010 年には「すべての医師の協働に果たす 勤務医の役割」であった。何れも答申書の形で 冊子化されてはいるが、日医会員すべてに配布 されてはいないので、興味ある方は日医のHP を参照頂きたい。この4 年間における勤務委員 会の活動を通して感じたことは、病院を中心と した近代医療の進展・拡大と共に、勤務医にとって日医の存在は希薄化する傾向を顕著に示して いることである。「何の為に医師会に入るのか」、 このアプリオリな質問に答えるべき有効な「解」 を見いだせないのが、現代の若い勤務医の大半 であろう。返す言葉が「医師損害賠償保険は医 師会の所管する保険の方が有利」だからと勧誘 するのは、余りにも侘びしい。2 度の答申を作 成するに当たり、医師会のあり方と勤務医の参 画について繰り返し意見交換を行い、そして答 申書として纏めてきたのであるが、現実と目標 (すべての医師が医師会に結集する)とのギャッ プの大きさに、戸惑いは尽きぬものである。
今回、県医師会の理事を離任することになっ たが、公務員医師を続ける限り、勤務医として の医師会活動のあり方について、私の模索する 旅はこれからも続くであろう。
2010 年、 全国勤務医連絡協議会・宇都宮大会 の特別講演で、愛媛大学医療情報部の石原謙氏 が言っている。「2000 年、WHO は190 カ国の 医療調査を行い、日本が世界一と評価をしたが、 これはマクロの成功とミクロの犠牲という二重 構造で日本の医療は成り立っている」からだと。 この「ミクロの犠牲」、それは医療提供者側の 過酷な勤務実態であり、その最たるものが勤務 医の現状であろう。日医が、そして県医師会が 何処までその状況を掬い上げる事ができるかと いう視点こそが肝要であり、これを医師会活動 の眼目として中心課題に据えるパラダイムシフ トが無い限り、勤務医の医師会離れに歯止めを かけることはできないものと痛感している。