おおうらクリニック 大浦 孝
1965 年、(昭和40 年4 月)金沢大学へ入学 した。金沢は春爛漫、町中桜吹雪の中、兼六園 の夜桜見物に先輩と出かけた。兼六園は花盛り で大賑わいであった。擦れ違う見物客の表情ま で晴れやかに見えた。
その頃、その先輩と相部屋で寮生活を送って いた。そこは西の廊(くるわ)に近く、ある大 先輩は廊から登校していたという伝説もあった。 寮は古い木造建築が鉄筋コンクリートに新築さ れ、畳の大部屋は二人相部屋の洋間のアパート に変わっていた。それでも24 時間騒々しく忍耐 が必要であった。また非常に野放図で、部屋の 掃除などしたことがなく万年床であった。コー ヒーカップが灰皿となり、必要なとき簡単にす すいで、またコーヒーカップに使ったりしてい た。その当時は合理的で不自然な感じもなく、 ごく普通の生活と思っていた。寮の食費は、朝 10 円、夕80 円、計90 円でまかなわれていた。 全くの粗食で、朝のみそ汁など、ひどい時はも やしが2、3 本浮いているだけであった。その頃 学食では素うどんが40 円、定食のゴールデンラ ンチが150 円であった。いまでも手元にある角 川国語辞典の定価は450 円となっている。
ところでその先輩は山岳部に属し山男であっ た。部屋には恭(うやうや)しくリュックとピ ッケルが飾ってあった。先輩は医学部に入った のではなくて山岳部に入ったのだと嘯(うそ ぶ)いていた。実際に、シーズンになると1 カ 月程部屋を留守にしていた。いわゆる山小屋生 活、山籠りである。髭面の山男曰く、「山を降 りて町に出ると女性が美しく見える。」と。先 輩方は新人の歓迎勧誘の意味もあり、立山を初 めとして北アルプスの山行の話を聞かせてくれ た。リーダー曰く、「槍は弧峰の如く、穂高の 後ろにそびえている。」
その後その話を聞きつけ我々素人3 人で無謀 にもリュックを担いでテントで一泊し、槍ヶ岳 の頂上を目差す計画を立てた。日程はリーダー の企画によりすでに決まっていた。時期は秋休 み。金沢から北陸本線で親不知、子不知を経て 糸魚川まで出た。大糸線に乗り換え、信濃大町 を経て松本へ到った。その先は松本電鉄の島々 線へ乗り換え、乗鞍岳を左手に眺め上高地に到 着した。
あの有名な上高地の河童橋の架かる梓川と大 正池を横目に、登山道へ入った。すでに先に出 発している他のパーティーの後を追うことにな った。一日目は暮れて大雪渓(槍沢)でテント を張り、無事一泊できた。
翌朝、銀世界で銀色の道を槍へ向かった。と ころがサングラス無防備のため、雪眼にやられ ていた。涙ポロポロで、稜線を登り続けた。大 曲(おおまがり)を過ぎ、殺生(せっしょう) あたりか、視界は霞、足を踏み外し尾根より 50m 程下へ転落した。幸いなことにスロープの 途中の大木の根元にひっかかり命拾いをした。 そのまま雪崩ていたら千仭(せんじん)の谷 底、行方不明の身となっていたことだろう。こ れにひるまず置いてきぼりにはなるまいと、果 敢にもそこから這いずり出し、再び元の稜線へ 辿り着いた。何事もなかったかの如く、メンバ ーの後を追いもくもくと頂上を目差した。
遂に、頂上に達し、例の鉄製の梯子(はし ご)を一段一段慎重によじ登った。梯子を登り 終え、大槍の穂先(約20 畳)に立った。すで に先のパーティーは穂先に達しており、眺望に 歓喜していた。私には山を征服した勇者の様に 見えた。頂上からの眺望は正に絶景であった。 360 度のパノラマ、雲海の中に北アルプスの 山々が神々しく突き出していた。時には富士の 霊峰も遠望できるという。
若気の至りで最初で最後の処女体験となっ た。今まで誰にも話す機会が無く、遠い記憶の 彼方に沈殿していたのが触発されて記録に留め ることになった。生命を五感で感じる至福の時 とは言えず、逆に山で命を落とす寸前の寸劇を 御紹介した次第である。
沖縄に帰郷してからは「仁者は海を愛する」 の生活となった。
「山は地図で見ても分らない。本で読んでも分 らない。写真でながめたものとも違う。自らの 足で登り、自らの眼で確かめる以外に山を理解 することはできないのだ。」
(新田 次郎 孤高の人 新潮文庫 1973 年)