敬愛会中頭病院循環器センター長
安里 浩亮
米国留学6 年目、1976 年の出来事である。
内科インターン1 年、内科レジデント2 年、循 環器フェロー2 年の後、ウェスト・バージニア大 学medical center の教授陣の一員としてmedical instructor(講師)に推薦され、任命された。
アメリカに住むつもりで家を購入し、前年ワ シントンDC の医師免許を取得してウェスト・バ ージニア州の免許に切り替えた。グリーンカー ド(永住権)の申請をし、数回Pittsburgh の連 邦事務所に足を運びグリーンカードも取得した。
外来で私が主治医をしていた心筋梗塞後の患 者さんが心不全で入院した。救急入院患者は原 則として一般内科に入院する決まりであった。 研修医とスタッフのローテーションでチームを 作り、別のスタッフが主治医となった。私はコ ンサルタントとして一緒に診ることになった。 心臓カテーテル検査が必要と進言したが、一般 内科主治医は自分の責任においては危険な検査 は避けたいとのことであった。患者さんが安里 の意見に賛同したので検査を受けることになっ た。心臓カテーテルの結果は左心室下壁の心筋 梗塞後の偽心室瘤で心不全の原因と考えられた。 開心術が必要と思われたのでその旨患者さんに 伝えたが、一般内科の研修医・レジデントはこ の病院での手術は危険すぎるので、他の病院で やったほうが良いとの意見であった。小生の意 見は心臓外科医が3 人もいるこの病院で手術は 可能と主張したが意見は対立したままであった。 紹介先は安里浩亮に任せるとのことだった。「君 のお母さんならどうするか?」とか「患者は最 良の医療を受けるべきだ」と譲らない。アメリ カ人は好んで「君のお母さんが患者だったらど うするか」と聞くようだ。小生の答えは「身内 の場合は自分の感情が入り判断を誤る事がある ので自分だけでは決めない」と答えてきた経緯 がある。1 ヶ月前のジャーナルに偽左心室瘤の レビュー論文が掲載され、47 の施設から剖検例 も含めて50 例ほどが報告された。これが意味す るのはアメリカ中でも手術の専門家はいないと いうことだ。最後は患者さんに決めてもらおう ということになった。一般内科のスタッフと一 緒に患者さんと話すことになり、「あなたの病気 は偽心室瘤で手術をしないといけないが、この 病気の専門家はアメリカ中でもいないが、希望 する心臓外科医や病院があればそこを紹介しま す」と話した。患者さんは「全部安里に任せる」 と言った。それでも一般内科の研修医を含めた スタッフは「患者は最高病院で最高の医療を受 ける権利がある」と主張したので、最後は頭に きて「アメリカには最高の病院が一つだけあれ ば良いというのか、十分な医療ができないなら 君も、君も、君もこの病院を去るべきだ」と言 った。頼みは十分に経験をつんだ心臓外科医に お願いするのみだ。当時、ウェスト・バージニ ア大学ではすでに1,000 例以上の開心術があり 成績も悪くはなかった。主任教授のDr.Warden に内科での経緯は報告せず偽心室瘤の手術をお 願いした。十分に患者さんの症状や心カテ結果 を説明し、1 ヶ月前のジャーナルのコピーを外 科医にあげた。手術日には全スケジュールをキ ャンセルして手術場に入った。内科医が手術場 に入るのは初めてのことだったらしく興味を示 してくれて歓迎もされた。手術は数時間を要す るもので左心室の梗塞巣と偽心室瘤の切除と縫 合であり、手術は無事終わったが、体温の回復 を待つ間は緊張の連続だった。心臓が動きだし たときは感動して言葉が出ないくらいに嬉しか った。それ以降、心臓外科に送る患者さんの手 術の立ち会いはできる限り、続けられた。
1978 年、県立中部病院に戻ってからも真栄 城優夫先生へ紹介した患者さんの手術には殆ど 立ち会いをしてきた。手術場で学ぶことは多か った。術前診断の正確性が要求されるので、手 術場での経験は、より精度の高い、手術を前提 とした検査となって活かされた。ICU で外科医 と共に患者を診て術後管理を一緒にした。術中 の観察から術後経過の思わしくないcase の診 断にも役立ち早期の再手術も進言できた。
このようなチーム医療は病院のレベルアップ にもつながり、院内の風どおしも良くなる。
以上、循環器内科医が開心術に立ち会ってき た経緯を記してみた。